戦後70年

最後の陸相が遺したもの…阿南惟幾、聖断に従い本土決戦を回避 進む再評価、8月に胸像建立

しかし、陸相は強硬派を押さえ込み、聖断に従った。その理由を惟正氏は、ある訓示に読み取る。二・二六事件の際、陸軍幼年学校長だった陸相が生徒らに行った訓示である。

 〈如何なる忠君憂国の赤誠も、その手段と方法を誤らば大御心に反し、遂に大義名分にもとり、勅諭信義の条下に懇々訓諭し給える汚名を受くる。諸子は此の際(略)自己の本分に邁進すべし〉

 天皇への深い尊崇と遵法精神に富んだ人柄があったからこそ、父は終戦を受け入れたのだ、と惟正氏は考えている。終戦か継戦かの瀬戸際で重大な役割を果たした陸相をたたえる胸像は8月22日、竹田市の廣瀬神社で建立式典が行われる。

阿南惟幾

 明治20年生まれ。侍従武官、陸軍幼年学校長、陸軍省人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、航空総監兼軍事参議官などを経て昭和20年4月、鈴木貫太郎内閣で陸相。鈴木首相は、阿南が侍従武官を務めていた時の侍従長だった。侍従武官の時、昭和天皇に親しく接し、その際に下賜されたワイシャツを着て阿南は自刃した。こうした経歴と人柄が、鈴木が阿南を陸相に選んだ理由とも言われる。少年時代から乃木希典を生涯の師と仰いだ。四男の惟道氏(故人)は元講談社社長、五男の惟茂氏は元駐中国大使。

宮城事件

 昭和20年8月14日深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心になって起こしたクーデター未遂事件。将校らは終戦を阻止しようとして、陸相の決定に従おうとする師団長を殺害。偽命令を発して近衛歩兵第2連隊に宮城(皇居)を占拠させ、玉音放送の原盤を奪おうとした。しかし、陸相や梅津美治郎参謀総長らが聖断に従う姿勢を変えなかったため、賛同が陸軍内に広がらず、近衛師団の上部組織である東部軍の田中静壹司令官が陣頭指揮して鎮圧した。

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