惟正氏はその日の早朝、母らと共に陸相の遺体と対面した。悲しみとともに、戦争は負けたのだなと思った。
「やはり父ならこうするだろうな、ということばかりが頭に浮かんだ。3、4歳上の人が予科練に行き、特攻で命を落とす時代でしたから」
父の背中見て
戦後、惟正氏は父母の郷里で高校に進み、東大を経て八幡製鉄に入社した。昭和31年、経済白書が「もはや戦後ではない」と書いた年である。
当時の製鉄所は肉体労働も多かったが、それを「男の仕事だ」と感じたのが入社の動機だった。やがて高度経済成長が始まり、残業が当たり前の生活の中で、日本の粗鋼生産量は英国を抜き、ドイツを上回り、米国さえも抜き去った。
「戦争で負けた英米に追いつこう。日本を大きくしていこうという気持ちが常にあった。会社が大きくなれば、社会への還元もできるのだから。その使命感や責任を取る姿勢は、父の背中を見て学んだのでしょう」
陸相が遺書に書いた大罪とは、陸軍のトップとして国を守れなかったことだ、と惟正氏は理解している。当時の陸軍には、まだ戦えるという判断があった。離島での戦闘こそ補給を断たれて敗退していたが、国内には220万人の部隊が温存されていたからである。その状況があったからこそ、強硬派将校が陸相にクーデターを進言し、宮城事件を起こすのである。