満州文化物語(2)

「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句

 史郎によれば、三船少年はやがて父親の仕事を手伝うようになる。「学校が休みのときは、三脚担いで父親(徳造)の仕事を手伝いに行った、と言ってました。学校の卒業写真や記念写真などを撮っていたようですね」

 父を手伝いながら、撮影や現像の技術を身につけた三船は6年間いた軍隊でも腕を見込まれて航空写真作成の任務を任される。昭和21年、第1回東宝のニューフェースに合格し、俳優になったときも実は撮影部(カメラマン)志望だったことは、よく知られているエピソードだ。

 「原点」は大連のスター写真館にあったのだろう。

コスモポリタンの街

 大連の街について後年、三船はこう語っている。

 「この港町は、いうなれば日本の植民地で、日本人が威張っていました。(略)外国品は豊富だし、日本人の生活程度はかなり高いようでした。外人も多く住んでいて、ちょっとコスモポリタン的な雰囲気を持った明るい風光に囲まれた清潔な街でした。(略)三船は外人キラーといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、ぜんぜんコンプレックスを感じたことがないのです」(雑誌「潮」昭和45年4月号より)

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