その写真帳は、大連「スター写真館」の前、中国の青島(チンタオ)と営口(えいこう)にあった「三船写真館」時代のものだ。大連へ移ってきたのは青島で生まれた(大正9=1920年)三船が9歳の春。きっかけは、仕事の不振だったらしい。三船はこう書き残している。
「父は第一次大戦後の好景気に恵まれ(略)市中でも飛ぶ鳥落とす程の勢いであった。しかし、私がほぼ物心のつき始める頃には、その勢いも衰えて、父は苦境にあった。(略)新しい地、大連の街に安住の場所を求めて船の甲板上の人となったのである」(昭和23年発刊の「映画スター自叙伝集」より)
大連・連鎖街店街の「スター写真館」の開業は、経済的苦境に陥った徳造にとって新規まき直し、再チャレンジだったのだろう。
最初の志望はカメラマン
大連で過ごした少年時代、「家計は楽ではなかった」(同)というが、夏は海水浴や野球、冬はスケート遊びに夢中になる。三船少年が通ったのは大連放送局(JOAQ=ラジオ局)に近い、新興住宅地の聖徳(しょうとく)小学校、6回生に三船の名があった。
小学校で下級生だった元大学教授(92)は「(三船がいたことは)何となく覚えている。(スター写真館があった)連鎖街にはよく買い物にいったけれど…」と懸命に記憶をたぐる。当然かもしれない。後年の世界的映画スターも当時は無名の少年、「スター写真館」は覚えていても、それが三船と結びつくのは戦後のことだ。