さらば愛しき人よ

素人女性ヌードの美を極めたカメラマン、大竹省二さん 「人間知らねばよいものは撮れない…」

写真家の大竹省二さん=2000年04月
写真家の大竹省二さん=2000年04月

 1920(大正9)年、遠州灘に面した静岡県横須賀町(現掛川市)に生まれた。尋常小学校1年のときに東京へ移るが、「遠州が故郷」という意識を持ち続けた。

 《僕にはやっぱり、言葉遣いはぶっきら棒、少々気も荒いが、気風(きっぷ)はいいみたいな遠州人の気質が合ってますね》(83年1月18日付日経夕)。

 とはいうものの、小さいころは家の中で過ごすことの好きなひ弱なタイプだった。そんな息子を心配した父が「男は外に出て、太陽に当たって遊べ」とカメラを買い与えたのだ。あっという間にカメラのとりこになった。中学生のころからカメラ雑誌に投稿を始め、10代後半にはアマチュア写真家として知られる存在になった。

 40年、中国上海在住の伯父を頼り、東亜同文書院に入学するものの、すぐに学徒応召。42年にコンテストに応募した写真が農林大臣賞と読売新聞社賞を同時受賞。44年、軍報道部、憲兵司令部で報道写真を担当し北京大使館報道部付になった。

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となり、49年に秋山庄太郎、稲村隆正らと日本青年写真家協会を結成。50年、米国通信社INP(UPIの前身)東京支局の写真部長になり、朝鮮戦争の報道に携わる。同僚だった三木淳は《彼の写真は前から見ていましたが、天才的な感覚がにじみでるようなすばらしい作品という印象が頭のなかにありましたネ》(84年2月27日付産経夕)と語っている。

 51年には再刊された「アサヒカメラ」で世界の一流音楽家の写真を担当することとなり、ポートレートの名手として確固たる地歩を築き、53年、秋山庄太郎や林忠彦らと二科会写真部の創立会員となる。

 後に「婦人科」「女性専科」と呼ばれるようになる大竹さんだが、そのきっかけのひとつは、映画雑誌「近代映画」で女優の写真を撮っていた秋山との出会いだった。

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