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6月6日夜、飯塚栄子(71)はさいたま市内のしゃぶしゃぶ店にいた。8日に77歳になった夫、繁雄の一足早い誕生日パーティーだった。主催したのは次男の耕一郎(38)。耕一郎は年に数回、温泉旅行や外食と形を変えながら夫妻を招き、親子3人で過ごす時間を演出してくれる。
「こうちゃん」「かあちゃん」と呼び合う栄子と耕一郎に血縁はない。
耕一郎を産んだのは繁雄の妹で北朝鮮による拉致被害者、田口八重子(59)=拉致当時(22)。37年前、八重子は当時2歳だった長女と1歳だった耕一郎を残して北朝鮮に連れ去られ、現在も帰国はかなっていない。
耕一郎が繁雄と栄子に引き取られて、37年になる。3人が親子として紡いできた年月は、拉致によって子供と引き離された八重子が北朝鮮で苦しみ続けている時間でもある。
嫌な予感と伏線
昭和53年6月下旬、栄子は埼玉県上尾市の自宅で1本の電話を受けた。八重子の失踪を告げる勤務先の東京・池袋のキャバレーからだった。
「八重ちゃんがどこに行ったか分からないって言うんだけど」。栄子は繁雄の職場に連絡し、2人で勤務先近くの八重子のアパートに向かった。
部屋は荒らされた形跡がなく、整頓されていた。書き置きもなく、洋服もタンスに残されていた。荷物をまとめて出て行ったという状況でもない。栄子は嫌な予感がした。「何かに巻き込まれたね」と繁雄に言った。この予感には伏線があった。
前年の52年10月。飯塚夫妻のもとに八重子の夫が訪ねて来た。定職に就かない夫は、外で働く八重子に代わって2人の育児を任されていたが、「手に負えない」と預けに来たのだ。それから半年間、夫妻は2人を預かった。