戦後70年 語り継ぐ

東名日本坂トンネル事故(上)

 ■「溶鉱炉」「地獄絵図」の中消火活動

 志太消防本部消防長の西尾正巳さん(59)は焼津消防署(当時)勤務の若手消防士として昭和54年7月に発生した東名高速日本坂トンネル事故の消火活動に当たった一部始終を「数年前のことのように」覚えている。

 当直に入ったばかりのところで、「日本坂トンネルで火災」と一報が入った。焼津側トンネル口から中に入ると、車両が数台燃えているのが見えた。その直後、「バーン、バーン」と耳をつんざくようなガソリンに引火した爆発音があちこちで何度も聞こえた。

 爆発音におののきながら放水を始めたが、焼けた車両の熱で水はすぐにお湯になって足元を流れ、たちまち熱湯の川ができあがった。消火栓の水のタンクは瞬く間になくなり、近くの川から10台以上の消防車を中継して放水を続けた。

 「トンネル内は高温のサウナ状態だった。喉が渇いたが、水は全て消火作業に使うから、飲み水なんてない。やっと飲み水が届いたのは真夜中で、むさぼるように飲み干した」

 事故車両の中からは焼死体が何体も発見された。事故発生から数時間しかたっていなかったのに、何日も置き去りになった遺体のように焼け落ちて白骨化していた。

                × × ×

 東側の静岡側トンネル口には、焼津側よりも早く静岡市消防が到着していた。先着隊の一人で、現場に最も近い出張所に勤務して2年目だった並木清和さん(56)は、白っぽい煙がトンネルから流れてきて、だんだん黒い煙に変わっていく様子が目に焼き付いている。トンネルは静岡側から焼津側に向かって下っており、構造上、煙は焼津側から静岡側へ流れる。トンネル内は煙で事故車両は全く目視できなかった。「2次災害を防ぐため、トンネル口付近の車両を誘導して出すように指示された。しかし、3台くらいバックさせたところで、焼津側から大量の煙が流れてきて活動できなくなった」

 サンケイ新聞(当時)で入社4年目だった小串文人記者(64)は、午後7時過ぎに静岡市葵区の支局でトンネル火災の一報を受けた。「まさか。大変な火災になるのでは」との思いでタクシーに飛び乗り、国道150号を飛ばして、焼津側トンネル口に到着した。初日は危険なため内部に入れず、翌日に入ったが、煙が充満して目も開けられない。写真を撮影しようにも、放水による湯気でレンズが曇ってままならない。「車の爆発音が奥の方で響いていた。焼けただれた車の山で、内部は溶鉱炉状態だった」

                 × × ×

 県警高速隊の事故係長だった、杉山光雄さん(71)は、焼津側から現場の実況見分に入った。車両はまだ燃えており、ガスマスクがなかったため、ぬれたタオルを口に当てた。天井板を支える鉄のアームが溶けて焼け落ち、「何というか、地獄絵図だった」。

 最初の玉突き事故後、160台以上の車に次々に延焼した。「後続車両は、酸欠状態のトンネル内でエンジンがかからず、逃げられなかったのも燃え広がった原因だ。車自体が可燃物で爆発的に燃えた」

 未曽有の被害を出したトンネル火災。杉山さんは、今、事故が起きていればどうなるかと思いをめぐらせる。

 「新東名高速道路が完成したが、今は、ネット通販など物流の量も増えていて、東西の大動脈としての東名の役割はより重要になっている。そのときは、どれだけの惨事になるだろうか…」 (大坪玲央 田中万紀)

                   ◇

【用語解説】日本坂トンネル事故火災

 昭和54年7月11日午後6時40分ごろ、東名高速下り線日本坂トンネルの焼津側から約400メートルの地点で発生した、国内の高速道路では史上最悪のトンネル火災。同トンネル内で大型トラック4台と乗用車2台が玉突き衝突し、トラックの積み荷の危険物やガソリンに引火。事故に気づかずトンネル内に進入した車両を含む計173台が約65時間にわたって燃え続け、死者7人、負傷者2人を出す大惨事となった。東名高速の全面復旧には2カ月を要し、全国の物流に多大な影響を及ぼした。被害総額は当時の金額で60億円とされる。

会員限定記事会員サービス詳細