兵庫・姫路空襲から70年 姫路城、戦火逃れ市民を鼓舞

兵庫・姫路空襲から70年 姫路城、戦火逃れ市民を鼓舞
兵庫・姫路空襲から70年 姫路城、戦火逃れ市民を鼓舞
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 白く輝く天守閣を持つ世界遺産・姫路城。「平成の大修理」を終え連日多くの観光客が訪れる。しかし、先の大戦中、戦火から逃れるため城は黒く擬装していた。姫路の市街地を襲った2度目の空襲から3日で70年。焦土と化したまちに残った城は、被災した市民らを鼓舞し復興の礎になった。戦争体験者らは「城にもまちにも二度と危機がない世の中にしてほしい」と願う。(上阪正人、小川勝也)

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 昭和20年7月3日午後11時半ごろ、警戒警報が出ていた市中心部の実家で、旧制中学1年だった高谷日出男さん(82)=同市嵐山町=はB29の動向を伝えるラジオに耳を傾けていた。「毎日のように出る警戒警報。今日も姫路にはこないやろ」と高をくくっていたその矢先、空襲警報に間髪入れずB29が飛来した。

 バターン、バリバリ-。何かが崩れるような物音を聞き、慌てて表に出ると約30メートル離れた家から火の手があがっていた。「先に逃げとるで」。家にいた父と祖父に伝え、避難先へ逃げるため、城の方向に駆けた。現在の好古園近くを通るとき、ふと思い立って天守閣に手を合わせた。城は暗闇の中でほとんど見えなかったが、いつも見ている。場所はわかった。「焼けんといてくれよ。絶対残ってくれ」。必死で祈った。

 夜道を夢中で逃げ、城の北西方面にある親類宅に着いた。市街地の方向をみると、空は赤く染まり、家々を焼き尽くす炎に照らされた姫路城の天守閣が煙の中に浮かび上がってみえた。高谷さんは「赤く浮かび上がった城と立ちこめる煙。不気味だった」と振り返る。

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 「姫路城史」(橋本政次著)などによると、姫路城は白漆喰(しっくい)で塗られた天守閣が敵機の格好の目標になるとして、15年から防空対策が議論されるようになった。白壁部分をペンキで塗る案などが検討され、最終的にコールタールで染めたわらの網で天守閣を覆うことが決まった。17年1月から5月に網をかけて黒く擬装。その後、その他の櫓や土塀なども擬装網で覆われ、屋根瓦の目地なども着色された。姫路城史は当時の様子を「今までの明るい印象は消失せて、何となく陰鬱(いんうつ)な感覚を与へるやうになつた」と伝える。

 姫路市内では6月と7月の2度の空襲で500人以上が死亡し、5万5千人以上が罹災(りさい)した。市街地は灰燼(かいじん)と化した。擬装したことが奏功したかは不明だが、焦土の中に城は残った。

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 播州地域の小、中、高校などで生徒らに姫路空襲の経験を伝え、戦争の悲惨さを訴える語り部活動を続ける同市東延末の元高校教諭、黒田権大さん(86)は、旧制中学4年時に空襲による火災で家を焼かれ、家族を亡くした。その失意のなかで「まちは焼けたが、お城が残った」との思いが希望となったという。

 黒田さんは姫路戦災死没者遺族会の会長だった平成7年、姫路空襲の爆撃を担った5人の元米軍パイロットが姫路を訪れ、姫路城に案内する機会があった。

 その際、黒田さんは元パイロットらに「あなたたちは、なぜ姫路城を破壊しなかったのか」と聞いたが、返ってきた答えは「姫路城が破壊されなかったのは偶然だ」。

 パイロットの一人は「城があることも事前に聞いていなかったし、機上からはどれが城なのか、わからなかった」と振り返り、城を囲う堀の水面も「湖か何かに見えた」という。

 パイロットたちの話では、空襲の指令が出された際、軍から配られた姫路市街地の作戦地図上で、赤インクで線引きされた爆撃範囲のちょうど北端の線上に姫路城があったという。

 黒田さんは「(野球の)ファウルか、フェアかどちらかわからないようなところに姫路城があったということで、焼かれなかったのは奇跡といえるかもしれない」と語った。

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【用語解説】姫路空襲

 昭和20年6月と7月に2度にわたり、姫路市が受けた空襲。最初は6月22日午前9時50分ごろ、姫路城近くの川西航空機(現・新明和工業)姫路製作所が爆撃を受け、南方から約60機のB29が数編隊で飛来し、約1時間の波状攻撃を仕掛けた。7月3日深夜から4日未明まで2時間ほど続いた2度目の空襲は、市街地が狙われた無差別焼夷(しょうい)弾爆撃で、市街地は一面が炎の海となった。

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