〈日本にとどまった理由の一つが作家、三島由紀夫との出会いだった。今年は生誕90年、自決して45年を迎える〉
三島は当時、昭和天皇を除くと、世界で最も話題性のある日本人でした。「日本の魂」に触れようとインタビューしました。彼の率直さが好きでした。
〈1969(昭和44)年3月、三島の富士山麓雪中演習に外国人として初めて同行した〉
「日本はどう生きるべきか」。三島は苦悩の中にいました。彼の指摘は本質を突いていました。彼を通して日本が抱える問題と進むべき方向性が見えました。三島は、米国によって日本が「属国化」されたことを嘆いていました。
〈1970(昭和45)年11月25日、三島が自決した日、マニラに向かうはずだった。台風で飛行機が欠航となり、自決を知った〉
茫然(ぼうぜん)となりました。中途半端な行動をしない男で、死ぬといえば、どんなことがあっても死ぬと思っていたからです。1カ月前に「この世の終わり」と書かれた手紙が送られました。何度もサインを出していたのに見落とした。「友達を見捨てた罪は許すべからざるものだ」といまだに自己批判しています。
三島が檄文(げきぶん)で訴えたことは大筋で正しい。しかし西洋では理解されていない。事件後、英語で三島由紀夫伝を書きました。邦訳され、ギリシャ語にも翻訳されました。
〈昨年11月、三島ゆかりの熊本・桜山神社を訪ねた。ラストサムライ、「神風連」の志士がご祭神として祀(まつ)られている〉
訪問してわかりました。神風連、特攻隊に連なる精神、自らの命を賭して日本を護(まも)る魂の在り方に三島が衝撃を受けたのです。
西洋を知れば知るほど、日本人としてのアイデンティティーに目覚めたのです。日本の文化、伝統が世界で希有(けう)な遺産であることを。
三島が命を懸けて訴えたかったことはマッカーサーが作った憲法の呪縛や自衛隊など米国の「属国」のようになった戦後日本の在り方でした。ただ反米ではありません。連合国戦勝史観からの脱却でしょうか。三島が人々に理解されるには、200~300年かかるかもしれません。
〈多くの日本の実業家の知遇も得た〉
最も親しかったのは第3代諏訪精工舎社長だった服部一郎さんです。電子情報機器のセイコーエプソンを立ち上げ、嘱望されながら川奈ホテルゴルフ場でプレー中に急死しました。今でも思い出すと悲しい。一緒にビジネスをやる計画を立てていたので残念です。
〈来日直後、白洲次郎とも面識があった〉
黒塗りのダイムラーで、よく高級料亭に連れていかれました。妻のあき子とごちそうになったこともあります。英国企業の日本進出で稼いでは、豪奢(ごうしゃ)な生活をしていました。流暢(りゅうちょう)な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。(聞き手 岡部伸)