花燃ゆ維新伝(29)

幕末の風雲児・坂本龍馬は大器晩成の「洟垂れ小僧」だった

【花燃ゆ維新伝(29)】幕末の風雲児・坂本龍馬は大器晩成の「洟垂れ小僧」だった
【花燃ゆ維新伝(29)】幕末の風雲児・坂本龍馬は大器晩成の「洟垂れ小僧」だった
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 幕末の風雲児といえば土佐の坂本龍馬である。時代の寵児といわれたこの男の人生はまさに波乱万丈であった。

 龍馬が生まれた天保6(1835)年は天保の飢饉のあとで世の中が疲弊していた。父の郷士、八平直足39歳、母幸38歳のときの子で、兄権平とは実に21歳も離れていた。世にいう季節はずれの子であったが、坂本家では大切に育てられた。長女千鶴とも19歳、三女乙女とは3歳違いであった。

 年が近いこともあって乙女はわが子のように龍馬をかわいがった。父が易者に龍馬のことを占ってもらうと「この子は大器晩成で天下を動かす大人物になろう」といった。

 龍馬と名付けられた理由は、母が懐妊した際、雲龍奔馬が胎内に飛び込む瑞夢をみたことと、生まれてきたときに背中に生えていた黒々とした毛が馬のたてがみにみえたからという。

 これは英雄伝説に多い話で、土佐では動物の名前をつけることが多かった。

厳しい身分制度

 坂本家の屋号は才谷屋で本家は城下でも屈指の豪商であった。よく近江坂本の地名ととりざたされるが根拠はない。郷士株を才谷屋が買うまでは大浜姓で、才谷村には大浜屋敷の地名が残っている。

 土佐には上士と下士の厳しい身分があり区別されていた。土佐は、戦国時代には長宗我部氏が支配していた。それにかわって遠州掛川の山内一豊が、関ケ原の戦いの戦功で土佐をあたえられた。山内家の家臣は上士、長宗我部の元家臣は下士であった。「郷浦にいらぬものは郷士と犬の糞」とさげすまれた。

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