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梅雨の蒸し暑さに加え、死臭や汚物臭が漂う暗い壕内で無数の人がうごめいていた。「水、水を」「おしっこ、おしっこ…」。戦闘で負傷し、手足を切断した負傷兵たちはうめき声を上げながら、18歳だった島袋とみ(88)=沖縄県沖縄市在住=のモンペの裾(すそ)をつかんだ。「とにかく今を必死で生きなければ」。島袋は自分にそう言い聞かせながら介護を続けた。
沖縄師範学校女子部本科に通っていた島袋が「ひめゆり学徒隊」として那覇市東南5キロにある南風原陸軍病院第一外科7号壕に配属されたのは、卒業を目前に控えた昭和20年3月23日夜。米軍が慶良間諸島などを空襲し、沖縄侵攻を始めた日だった。
病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や、ガマと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ。軍医や看護婦、衛生兵は約350人。ここに島袋ら15~19歳の女学生222人が教師18人に引率されて看護補助要員として動員された。
「兵隊さんの声を子守歌だと思いなさい」。看護婦にこう言われながら、島袋らは負傷兵の食事や下の世話に追われた。
壕に運び込まれる負傷兵は日ごとに増えた。傷口には蛆(うじ)がわき、包帯の上から動いているのが分かった。包帯を交換する度にピンセットで取り去ったが、数日するとまた新たな蛆が傷口に食い込んでいた。