子・孫が語る昭和の首相

(6)「党内抗争が鈴木善幸を必要とし、余力を残して辞めた」長男の俊一氏が語る

【子・孫が語る昭和の首相】(6)「党内抗争が鈴木善幸を必要とし、余力を残して辞めた」長男の俊一氏が語る
【子・孫が語る昭和の首相】(6)「党内抗争が鈴木善幸を必要とし、余力を残して辞めた」長男の俊一氏が語る
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 70代、鈴木善幸(昭和55年7月17日~57年11月27日、在職864日)

 自民党内の派閥争いが激化し、政争で明け暮れていた昭和55年。大平正芳内閣不信任決議の可決と史上初の衆参同日選、選挙戦中の大平の急死という異常事態の中、一人の男に白羽の矢が立った。鈴木善幸(以下、善幸)だ。長男の自民党衆院議員、鈴木俊一(以下、俊一)は、善幸が信条とした「和の政治」が権力の座に就かせたとみる。(酒井充)

津波で政治家決意

 8年3月3日未明、岩手県など東北地方三陸沿岸を大津波が襲った。当時農林省水産講習所(現東京海洋大学)の学生だった善幸は肋膜(ろくまく)炎を患って休学し、たまたま故郷の岩手県山田町で静養していた。

 <そのころは経済恐慌で、農村も凶作、漁村も疲弊していた。そこに津波が完璧に追い打ちをかけた。おやじから「3日間、歩ける範囲で町内を全部見て回った」と、そのときの状況を聞きました。悲惨な状況を見て、政治に志を持つことになるんですね>

 善幸の衆院初当選は22年、社会党公認だった。網元の家に生まれ、漁業の協同組合運動に取り組んだ縁だった。だが、党は分裂し、野党に転じると、その限界を感じる。次回の24年衆院選は当時首相の吉田茂率いる民主自由党(後に自民党)に移籍し、以後当選を重ねた。