数学の工業分野などへの応用を研究している九州大「マス・フォア・インダストリ研究所」で、次世代暗号の研究が進んでいる。すべての機器がネットワークにつながる現代社会にあって、暗号は軍事上だけの存在から、個人情報保護など日常的な情報通信技術を支える不可欠な技術になった。子供のころ、誰もが一度は抱いた疑問「数学なんて社会で役に立つのか?」。答えは「意外な分野で役立っています」
5月20日。九州大伊都キャンパス(福岡市西区)にあるマス・フォア・インダストリ研究所の一室で、研究員の奥村伸也氏(27)らがチョークを手に、ある数式について議論を交わしていた。
英国政府通信本部(GCHQ)が開発したと噂される暗号数式だ。GCHQは、世界中の通信を流れるテロ情報などに目を光らせ、暗号解読も担う。
奥村氏らは、暗号の解読・開発に携わる研究者の間で漏れ伝わる断片情報を基に、この数式を調べている。
九大は4月、マス・フォア・インダストリ研究所に次世代暗号を研究する「先進暗号数理デザイン室」を設置した。
同デザイン室長で暗号分野の国内第一人者、高木剛教授(数理学)は「数学者は若い方が頭の回転が速い。彼らの研究の結果、GCHQが開発したとされる暗号も、解読可能だとわかった」と語った。
国内外から最先端の暗号技術の情報を集め、解読できた場合は、その脆弱性を学会の場などで発表する。独自の暗号開発も進める。すでに、大手電機メーカーと、現在では「解読不可能」とされる暗号を開発し、特許出願を検討している。
さきの大戦まで、暗号は、軍事・外交上の情報を秘匿するための特殊な技術だった。
今は違う。インターネットが普及し、電子メールをはじめ、ネットワーク上に膨大な情報が流れる。国家レベルだけでなく民間企業の業務や、個人の通信販売でもネットワークを介して情報をやり取りするのが当然となった。
それだけにネット空間で、企業や個人の情報を秘匿する暗号が欠かせない。暗号研究が加速する理由がここにある。
暗号研究において、開発と解読は表裏一体だ。新たな暗号が生まれれば、解読技術が進み、さらに解読されないような次の暗号が誕生する。
実際、高木氏と富士通研究所(川崎市)などの研究グループは平成24年6月、次世代暗号「ペアリング暗号」について、世界最短での解読に成功した。ペアリング暗号は、ネットショッピングでのクレジットカード情報の秘匿といった分野において、利用が見込まれる。脆弱性を指摘した高木氏らの研究によって、さらに改良が進む。
現在の暗号の主流は、中学校で習う「素因数分解」の応用だ。大きな桁の数字を、素数に分解する難しさを生かして、組み立てられている。解読にはスーパーコンピューターが欠かせない。
ところが近年、まったく新たな暗号が誕生しつつある。
電子や光子など、極小の世界を表す「量子力学」を応用した量子暗号だ。さらに2年ほど前からは、「ポスト量子暗号」という新たなジャンルも誕生した。
九大の先進暗号数理デザイン室で奥村氏らは、「ポスト量子暗号」の開発や安全性評価にも取り組んでいる。
外交・軍事に加え、産業界で暗号の重要性が高まる中で、九大伊都キャンパスの研究に世界中の関係者が注目している。
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九州大は今月11日、伊都キャンパスで先進暗号数理デザイン室の開設を記念し、ワークショップを開く。暗号分野で日本を代表するエキスパート10人が講演する。