歴史のささやき

「古九谷」論争、突如の決着 旭学園理事長・高島忠平氏

色絵山水竹鳥文輪花大皿。中国・景徳鎮の磁器(上)と、それを手本に有田で焼かれた大皿(鍋島報效会所蔵)
色絵山水竹鳥文輪花大皿。中国・景徳鎮の磁器(上)と、それを手本に有田で焼かれた大皿(鍋島報效会所蔵)

 「先生! 事実は事実として公表を…」「それは、慎重に判断したい…」

 佐賀県有田町山辺田(やんべた)窯跡の出土資料の整理を続けていた大橋康二さん(佐賀県立九州陶磁文化館元館長)は、三上次男さん(東大名誉教授・故人)と何度か同じようなやりとりを繰り返した。

 三上さんは、昭和47年から4年にわたる山辺田窯跡の発掘調査団の団長だった。弟子の大橋さんは、報告書作成に向け、膨大な量の陶磁片の整理をしていた。その過程で大発見をしてしまったのだ。

 「古九谷(こくたに)」論争をご存じだろうか。

 九谷焼は現在の石川県加賀市で江戸時代の17世紀に始まったとされる。このうち、華麗な色使いと斬新な絵柄が特徴の初期の焼き物を「古九谷」と呼ぶ。この古九谷は、九谷ではなく佐賀・有田で焼かれ、伊万里から出荷されたのではないかという説がある。九谷VS有田の論争は長年、学会を二分してきた。

 大橋さんは山辺田窯跡の陶磁片から、確実に「古九谷」の大皿のものを見つけた。「有田説」に軍配を上げ、論争にケリを付けるこれ以上ない証拠だった。

 大橋さんは「はっきり公表すべきだ」と師の三上さんに主張した。だが、三上さんは渋った。論争の決着が、古九谷の美術品としての価格とも関わるため、研究者として慎重にと考えたのかもしれない。結局、昭和55年に出された報告書では、その事はあいまいに処理された。

 ただ、こうした三上さんの姿勢に、私も割り切れない思いを持った。

 山辺田窯跡の調査後、三上さんは、当時佐賀県教育委員会の文化財担当をしていた私に相談に来られた。「新たな問題意識が出てきた。有田町内にある小溝(こみぞ)窯跡を発掘したい」という申し入れだった。

 詳しい理由はおっしゃらず、正直、私はいささか不信感を抱いた。いや、考古学研究者の直感で、何か重要なことを隠しておられると感じたのだ。

 「まず、山辺田窯跡の調査結果を公表し、知見と新たな問題意識を皆が共有できるようにしてください。その後に新たな窯跡の発掘をしましょう」と断った。

 後から考えれば、三上さんは「古九谷」のことで、さらに周辺の遺跡を調査したかったのだろう。だが、核心に触れられることは、ついになかった。

 ところが、山辺田窯跡の「古九谷」は突如、表舞台に登場する。

 昭和61年、福岡市で東洋陶磁学会が開かれ、その中でシンポジウム「日本色絵磁器創生期の諸問題-古九谷・伊万里-」があった。

 大橋さん、嶋崎丞さん(当時・石川県立美術館長)、矢部良明さん(東京国立博物館陶磁室長)ら錚々(そうそう)たる陶磁史研究家が出席した。そこで大橋さんは、かねてからの調査研究の成果として、有田町内の「古九谷」関係の資料を発表された。

 「有田説」を裏付ける資料が唐突に出てきたのだ。「何で今、この場所で…」。出席者は皆ショックを受けた。「有田には古九谷と思われる物は出ていないと言っていたではないか」。会場は騒然となった。

 平成12年には「有田説」の決定打が公表された。佐賀鍋島家に伝えられてきた初代藩主、鍋島勝茂所蔵の色絵大皿だ。2枚あり1枚は中国景徳鎮窯のもの、もう1枚はそれをまねて焼かれた有田製のものだった。年代も確かで、有田における色絵磁器創生の状況を示すものだった。まさに「古九谷」と呼ばれてきたものだった。

 ちなみに、この色絵大皿、大橋さんは、初期の柿右衛門様式を伝える窯で焼かれたものではないかとみている。案外、柿右衛門窯創業と関係するのかもしれない。

                   ◇

【プロフィル】高島忠平

 昭和14年12月福岡県生まれ。熊本大学卒業後の39年、奈良国立文化財研究所(当時)入り。平城宮跡(奈良市)、田能遺跡(兵庫県)などの発掘に携わり、49年から佐賀県教委文化課文化財調査係長。吉野ヶ里遺跡発掘を指揮し、「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。平成16年佐賀女子短大学長、18年から同短大などを運営する学校法人「旭学園」理事長。

会員限定記事会員サービス詳細