妻妾(さいしょう)同居は明治初期までは一部でふつうに見られた風習だ。戸籍上も「妾(めかけ)」の文字が公認されていた。
ところが西洋から入ってきた一夫一婦制や男女同権論から論議がわき起こる。とりわけ妻と妾が同じ家の中で暮らす妻妾同居という形態は野蛮な風習としてやり玉にあがった。「家系の存続」を理由に反論を試みる向きもあったが、明治13(1880)年に刑法の制定にあたり「妾」の文字が消え、明治31年に民法で重婚の禁止がうたわれた。
しかし、長らくの風習は黙認という形で社会に残っていただろう。
後にキリスト教に入信し矯風会活動に力を入れた浅子のことだ。家の中の出来事に心中穏やかでなかったはずとも思うのだが、「名流の面影」(佐瀬得三著・明治33年)にはこんな記述がある。
「一と粒種の亀子が産れてからは、久しく召使った従順なる一人の女をば自分が勧めて良人の妾にして今では其妾腹に三人迄の子供がある(原文ママ)」
そうして浅子は家の中の一隅を仕切ってわが居間にし夫の世話はその女性に一任して、自分は独立といった形をとっていたという。なぜそんなことをしたかといえば、亀子の出産が難産で再び子供をつくることをあきらめたせいだとか。
「家は随分ごたごたしているけれど、常に和気洋々として乱れざるのは、全く夫人の注意の行届く結果であって妾腹の子供等は寧(むし)ろ実母よりも夫人に懐き親しむの風がある」と書いている。
幼いころは「別腹」に生まれた娘として大家の中で複雑な思いを抱えて生きてきた。嫁いだ後は「家を守るため」に獅子奮迅の働きを続けてきた。浅子の胸中はわからないが、どの子も分け隔てなく大事に育て、長じてからも子供たちは和気藹々(あいあい)とした付き合いを続けたという。