日本の源流を訪ねて

三池港閘門(福岡県大牟田市)

三池港の閘門。干潮前にゆっくりと閉じていく
三池港の閘門。干潮前にゆっくりと閉じていく

 ■今も残る三井財閥総帥の心意気

 福岡県大牟田市から熊本にまたがる三池炭鉱は、古くから採掘が始まり、特に明治以降は日本の近代化を支えた。三池炭鉱の石炭の輸出港、それが有明海に面した三池港だった。

 有明海は干満の差が大きい。最大6メートルにもなり、大型船の発着は難しい。このため、当初は小型船で石炭をピストン輸送していたが、増加する採掘量に、間に合わなくなってきた。

 そこで、英国の最先端技術を導入し、潮の満ち引きに関係なく港内の水位を維持する水門「閘門(こうもん)」を有する三池港を整備することになった。

 干潮時は鉄製の扉を閉じ、港内の水位を維持する。潮が満ちれば観音開きになり、船が出港する。2枚の扉が合わさる部分には、腐りにくいアフリカ・ギアナ産の木材を貼り付ける工夫を施している。

 当時、輸送船で主流だった1万トン級の船の幅が18メートルだったことから、門のうち船が通過する部分は幅約20メートルに設計された。

 最先端技術を惜しみなく使った閘門を含め、三池港を築いたのが、当時、炭鉱を所有していた三井財閥の総帥、団琢磨(1858~1932)だった。福岡藩出身の団は、明治35年から41年まで、5年半をかけて港を整備した。延べ約262万人が作業に従事したという。

 明治という日本の勃興期にふさわしく、団はスケールの大きな人物だった。港をみて「こんなに大きいものを作るとはね」と感嘆する知人に対し、団は「400万円の予算に(対し)、376万円でできた」と語り、余った金で、政財界の社交場「旧三井港倶楽部」を作ったという。

 また、団は炭鉱経営だけを見て、港を整備したわけではなかった。

 「石炭山の永久ということはありませぬ。築港をやれば、そこにまた産業を興すことができる。築港をしておけば、いくらか100年の基礎になる」

 こう語ったという。

 戦後、炭都・三池の石炭は安価な輸入品に押されるようになった。石炭から石油へ資源の主役交代に加え、爆発事故の影響もあり、三池炭鉱は平成9年、閉山した。

 だが、団の見立て通り三池港は生き残った。

 平成18年、国際コンテナ定期航路が就航し、国際物流拠点としての新たな一歩を踏み出した。その中で、水門は建設当時の構造がほぼ現存し、100年たった今なお、現役だ。

 港を管理する「三池港物流」の植竹俊光取締役(53)によると、台風が来れば熊本と長崎を結ぶ高速船などが水門の中に避難し、待機することもあるという。植竹氏は「産業革命を成し遂げようと築港を発想し、実現した団琢磨の心意気は、現在の私たちも見習うべきです」と語った。

 三池港は、世界文化遺産への登録が勧告された「明治日本の産業革命遺産」に名を連ねている。(村上智博)

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