戦後70年 語り、つなぐ

(1)さいたま市浦和区・前田利幸さん

 ■空襲…火柱、「浦和がなくなった」

 さいたま市浦和区仲町の前田利幸さん(77)は昭和12年生まれ。長年勤めた自動車会社を退職後、浦和ガイド会の一員として、浦和の街を案内する活動に参加している。前田さんは浦和に焼夷(しょうい)弾が落とされた昭和20年4月のことを、今でも鮮明に覚えている。

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 --戦争についての一番古い記憶はなんですか

 物心ついたときにはラジオで戦争のことが流れていました。当時の曲の歌詞を覚えてますよ。「空襲警報聞こえてきたら、みんな僕たち小さいから、大人の言うことよく聞いて、慌てないで、騒がないで、落ち着いて、入っていましょ、防空壕(ごう)」。こんな歌でした。

 --当時の浦和の様子は

 18年4月ごろ、爆撃予告ビラが空からひらひらと落ちてきたのを覚えています。そうすると今の緑区中尾にある祖母の家に疎開していました。農家だったので、町では配給になっていてあまり手に入らない銀シャリ(白米)が食べられるのがうれしかったな。機銃掃射をする飛行機も飛んでいたので、あまり開けたところでは遊べなかった。

 --空襲があったのはいつ頃ですか

 私の家のすぐ目の前が燃えたのは昭和20年4月13日深夜から14日朝にかけてです。夜中に爆撃機の「ブーン」とうなるような音が聞こえて、外に出ると10機以上のB29がサーチライトの光に照らしだされていた。爆弾がばらばらばらと地上に落ちていくのが見えて、すぐにそこからごおっと火柱が上がるんです。

 --寝間着のまま逃げたんですか

 当時は空襲に備えて、普段着に近いような格好で寝ていました。火を見てすぐに4歳上の姉と風上の方に逃げました。普通だったら浦和駅の方に逃げそうなものですが、途中で誰かが「風上に逃げた方がいい」と教えてくれたそうです。

 --空襲の後は

 旧制浦和高校の校庭に撃ち落とされた米軍機の乗務員10人ぐらいが目隠しをされて柱につながれていました。目隠しで隠れていない肌が真っ赤で、南の方で日焼けしたのか、それとも墜落時にやけどをしたのか。その様子を後で作文に「まさに鬼のような赤い顔だった」と書いたら先生から三重丸をもらいました。

 --浦和の被害は

 浦和刑務所から始まって県庁裏の17号国道を越え、浦和高校までの約2キロメートル住宅130戸と浦和教会が焼けました。姉と逃げた風上から町を見たら火の海で「もう浦和は焼けてなくなってしまったんだ」と思いました。いま住んでいる人たちはここで戦争があったことを知らない。でも浦和にも空襲が確かにあったんです。

 --終戦の日の様子を教えてください

 埼玉師範学校の講堂に学生や付属校の小学生が集められました。「日本が負けた」と言われても、小さかったからピンとこなかった。男の先生が顔を覆ってわんわんと号泣しているのが不思議でした。私たちはずっと日本は強い、勝っていると聞かされてきたので「大人が言っていたことは嘘だったのかな」と子供心に思いました。

 (聞き手 菅野真沙美・27歳)

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 先の戦争から70年。若手記者が、当時を覚えている方にお話を伺い、埼玉の戦争の記憶を未来につなぎます。

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