《60年安保以降の闘争歴史を変えた 市井に芽生えた新たな恐怖》
鈴木 あの事件は、60年安保以降の闘争の歴史を大きく変えたと思っている。70年安保闘争はわれわれも注目していたが、東大安田講堂事件で全共闘は殲滅(せんめつ)した。これで、70年安保闘争の前段は終わった。組織はバラバラになり、爆弾闘争に転じていく。最初は明治公園の鉄パイプ爆弾事件。その後、昭和46年の東京・新宿のクリスマスツリー爆弾事件、土田邸小包爆弾事件など起きるが、どんどんエスカレートしていった。その揚げ句に起きたのが、連続企業爆破事件だった。
市民の中に溶け込み、「ローンウルフ」のように潜っていた。実際、大道寺将司死刑囚は自分のアパートの地下に爆弾製造工場を作っていた。過激派の戦術も組織も全部変わっていき、一般市民の顔をしながら、極めて危険なことを計画し、実行していった。僕は、それが今につながっていっているように思う。
山崎 当時の爆弾闘争はあれで終わった。その後の動きはなくなった。一般社会や過激派自身の受け止め方も、「爆弾をやっても仕方がない」に変わっていった。何も世の中変わらない。日本赤軍が海外で活動したが、それは別の動きだ。どのようなことであれ、世の中で何かしようと思っても、市民の顔さえしていれば分からない。普段は日常の生活をして、不満のはけ口のない人が海外に出て行って、また戻ってくる。日本で何か事を起こそうと思えばできるということだ。テロを起こそうと思ったら、それができる可能性が今の日本にはある。
《『あれは公安担当の事件だ、刑事担当が勝ったのではない』と他紙 『絶対に抜いてやる』の決意》
(産経新聞はこの事件に続き、翌年も「乳児・幸恵ちゃん誘拐事件 犯人きょう逮捕」で2年連続して協会賞を受賞する)
村上 連続企業爆破事件には後日談がある。スクープした年の12月28日のことだった。仕事納めで捜査1課長の官舎に各社が集まり、合同で打ち上げをやった。その時、「今年は産経の年だったね。あれは見事だった」と捜査1課長がいうと、ある社の記者が「そうじゃない。あれは産経の公安担当が勝ったんだ」と言った。事件捜査の途中経過はかなり抜いたが、最後は公安の世界。そういわれれば、グウの音もでない。「あれは捜査1課担当の手柄ではない。産経の公安担当が強かったんだ」。その言葉が当たっているだけに、逆に悔しさがこみ上げた。
「来年、完璧に抜いてやる」
狙いを、捜査1課が抱えていた最大の未解決事件、乳児誘拐事件に絞った。翌年は正月から徹底的に取材を続け、事件の全容が見えてきた。すでに、犯人の女は築地署に別の容疑で逮捕されており、夫は幸恵ちゃんを自分の子供と思い込んで育て続けていた。子供ができなかったため、離婚されそうになり、その末の犯行だった。連続企業爆破と同じパターンで、「幸恵ちゃんが無事に保護されるまで記事にはできない。問題はいつ捜査本部が強制捜査に踏み切るか」だった。そして、その日はやってきた。
生原 刑事部担当も公安部担当もない、オール産経の勝利だった。「爆弾のトラベルウオッチ」「犯人特定につながるタクシー運転手の目撃」「爆弾教本の腹腹時計」、そして「犯人グループ一斉逮捕」-など、産経は発生直後から次々に特ダネを書いた。各社もいろいろ書いてきたが、大きな節目は産経が抑えた。
新聞記者はなぜ、特ダネを目指すのか。その競争のエネルギーが隠された事実を暴き出す力になる。真実を掘り出して読者に届けるのが新聞記者だ
小野 あのころの事件記者は、一番事件記者らしかったのではないか。
鈴木 それは緊張感があったからだ。世の中、全体にね。