東京特派員

学帽も書生もいなくなった 湯浅博

 ゆえあって連休の一日、文京区の本郷界隈(かいわい)を歩いていた。本郷には坂が多く、習いたての小唄を口ずさんで歩くと息が切れる。真砂坂に菊坂、炭団坂、胸突坂、無縁坂と数え上げるときりがない。本郷3丁目から東京大学の赤門前にかけての本郷通りを「見返り坂」といい、ここで江戸に別れを告げた往事の名残らしい。

 3丁目の角には江戸のランドマーク、小間物屋「かねやす」ががんばっている。例の江戸川柳「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠まれたのは、ここが江戸の内と外の境だったからである。

 見返り坂の1本裏手の道に、以前は老舗料理屋の「百万石」があった。創業明治32年の風格ある構えで、庶民にはやや入りにくかったようだ。戦前の自由主義者、河合栄治郎を調べているうちに、この百万石が河合ら自由主義者と大内兵衛らマルクス主義者の確執の舞台であることを知った。

 河合は昭和初期に、「左の全体主義」マルキシズムと闘い、やがて戦時下で「右の全体主義」軍国主義をも批判した唯一の知識人だった。著作物の『ファシズム批判』『時局と自由主義』など4冊が発禁処分になり、病を押しながら法廷で壮絶な言論戦に挑んだ。独立不羈(ふき)の闘いの中で、河合は自らの思想に殉じていった。