子・孫が語る昭和の首相

(5)大平正芳「あーうー」には理由があった 婿の森田一氏が語る

 与野党拮抗(きっこう)の政治状況を打開するべく、大平は同年9月に衆院解散を断行、選挙では国民に一般消費税の必要性を訴えた。しかし、中央省庁の無駄遣いなどが次々と明らかになり、「増税では選挙にならない」とする党内の反対が高まり、投開票直前に導入断念を宣言せざるを得なかった。

 衆院選の結果、自民党は過半数割れに。無所属議員を追加公認してかろうじて過半数は維持できたが(前回比1議席減)、福田らが敗北の責任を取って退陣するよう強く求めた。この対立は「四十日抗争」と呼ばれ、最終的に大平と福田がそろって首相指名選挙に臨む異例の事態となった。

 <大平は、10議席減なら無条件で首相を辞めていた。1議席減で辞めるのは無責任じゃないかということで、続投を決断した>

 大平は再び首相指名を受けたが、福田ら反主流派の攻勢はやまなかった。

「保守本流」

 大平は11年、大蔵省に入省し、翌年には結婚、そして横浜税務署長となる。このときの上司にあたる関東税務監察局直税部長が後に首相となる池田勇人だった。大平は池田内閣で官房長官、外相などを務め、池田側近として政治家の地歩を固めていった。

 <池田さんと一番親しい関係だから、大平はいろいろ言えた。「池田さんは富士山みたいなもので、そばに近づいたら欠点がごつごつある」とか。池田さんもそれに全然怒らないという関係だった>

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