大正末期、ピストルと刃物を使用して強盗殺人を働き東京・大阪はもとより満州にも潜伏。ピストルと偽名から「ピス健」と呼ばれた大悪党が世間を震撼(しんかん)させた。前科者というレッテルを貼られて更生の道を閉ざされ、世間に対して恨みを募らせた揚げ句の犯行に同情の余地はないが、少年期のサーカス団で培った変装や芝居っぷり、いくつもの偽名と俊敏な動きで捜査網をかいくぐり、最後は警察官300人を動員する大捕物。ピス健の行動は、小説のようなシーンの連続だった。
早朝の小学校長職員住宅
大正14年11月9日の午前4時15分ごろ。東京府品川町南品川浅間台の浅間台尋常小学校長、関根岸郎(42)方に、覆面で黒詰め襟の上着、茶褐色のズボンをはいた身長5尺(約1・5メートル)の強盗が押し入った。
岸郎が目を覚まして声を上げたため、強盗は短銃を3回発砲。1発が同居していた教員の幸内寅吉(32)に命中して肝臓を貫通させ、強盗は逃走、品川駅構内へと走り込んだ。重傷を負った寅吉は医師の手当てでいったんは「校長先生は無事でしたか」などと会話もできる状態になったが、近くの戸塚医院に運ばれてさらに手当てをしているうちに、「だんだん呼吸が苦しくなってきた。おやじが来たら、先に参りますと伝言してください」などと落ち着いて話し、8時50分に死亡した。
関根校長宅は、小学校のすぐ裏の高台にある2階建ての教員住宅。強盗は最初、隣家を狙ったが戸締まりが厳重だったため、関根校長宅に移った。覆面をして台所口から侵入した。
最初は単に窃盗の目的だったとみられるが、侵入に気付いた岸郎が何者かと声を出すと、「騒ぐと殺すぞ、金を出せ」と脅迫。岸郎が「金なぞあるものか、帰れ」と怒鳴りつけると、「なに」とばかり短銃を発射したという。1発目は布団に当たり、岸郎はかすり傷も負わなかったが、隣室の4畳半に寝入っていた幸内が校長の一大事に気づき、飛びついた。