文芸時評

ファイアウォールとしての文学 5月号 早稲田大学教授・石原千秋

 水村美苗『増補 日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』(ちくま文庫)が刊行された。増補された50ページ近い「文庫版によせて」は、本編とは論調が微妙に異なる。本編では英語を「普遍語」と呼び、日本語を「現地語」と呼んで、日本語の野辺送りのような趣が強く出ていたが、増補部分では日本語で思考することの重要性がかなり強調されている。いま大学では文部科学省の政策に則(のっと)って、英語で授業ができる教員を積極的に採用する方針を打ち出すところが増えてきている。英語で思考することだけが学問だと言っているに等しい。これと大学入試に多様性を求める政策とどういう整合性があるのか、理解に苦しむ。

 これは翻訳の問題でもある。多和田葉子がカフカの『変身』を「変身(かわりみ)」とルビを振って訳している(すばる)。かつて「理想の教室」(みすず書房)シリーズで、野崎歓がカミュの『異邦人』を「よそもの」と訳し、合田正人がサルトルの『嘔吐』を「むかつき」と訳したときにはどこか腑(ふ)に落ちるような感じがあったが、「変(かわり)身(み)」には違和感しかなかった。「かわりみ」という言葉の持つ語感と小説とが一致しないからだ。第一文を読んで、これはもうまともな日本語ではないと思った。まともでない小説をまともに乱れた日本語で読みたいと思うのは、贅沢な望みなのだろうか。

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