文芸時評

ファイアウォールとしての文学 5月号 早稲田大学教授・石原千秋

 中村文則『迷宮』(新潮文庫)の、中村自身の書いた短い「文庫解説にかえて」の末尾が気にかかった。「人にあまり言えないことの一つや二つ内面に抱えてるのが人間だと思う。無理に明るく生きる必要はないし、明るさの強制は恐ろしい。さらに言えば、『平均』から外れれば外れるほど、批判を受ける確率は高くなっていく。/そんな面倒な時代かもしれないけど、小説のページを開く時くらいそこから自由になれるように。共に生きましょう」と。

 この末尾の背景には〈明るさ〉や〈ふつう〉や〈正しさ〉を「強制」する社会の圧力が感じられる。「悪」を書き続けている中村文則にとって、それは厳しい状況だろう。これは中村文則個人の問題ではない。文学の問題である。しかし、文学も他の言説もフラットなのだと言って、「差別」を「告発」する退屈な「学会版道徳の時間」を「業績」だと思っている「文学研究者」たちもこうした圧力に加担している。こういう人のほとんどは言説分析の技術を持たず、表現から意味だけを読んで、それが文学研究だと思い込んでいる。