ドゥーリトル本土初空襲、目撃した野村弘光さん 実体験を検証、伝え続ける 神奈川

 73年前の昭和17年4月18日、ドゥーリトル中佐に率いられた米陸軍爆撃機16機が本土を初空襲した。横浜上空でも焼夷(しょうい)弾を落とし、機銃を掃射して幼児1人が死亡。当時小学4年の野村弘光さん(82)=ホテル・ニューグランド取締役=は、超低空で飛び去った爆撃機を中区の自宅近くで目撃した。3年後の20年5月29日には横浜大空襲に遭遇。体験を手記にまとめ講演で語り伝えてきたが、戦後70年の今、自身を含めた空襲体験者の高齢化にもどかしさを感じる日々だ。(渡辺浩生)

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 ■一瞬の出来事、手記に

 《その日は土曜日で、学校からの帰途、自宅前まで来たとき、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り、激しい対空砲火音の中、和田山の方角から聞き慣れない爆音のする方を見ると、約100メートルくらいの超低空を、濃い色の機体に星のマーク付きで双発2枚垂直尾翼の飛行機が、東南方向へ東京湾に向かって、かなりのスピードで飛び去った》

 日米開戦4カ月後の17年4月18日は快晴だった。日本近海の米空母ホーネットから飛び立ったB25陸軍爆撃機16機のうち、横浜を攻撃した1機を目撃した「一瞬の出来事」を、手記「横浜空襲を通しての戦争体験」に記した。平成10年8月に執筆し、友人らの証言などから新たに知った事実を書き加えてきた。

 当時、市立間門国民学校4年。中区本牧三之谷の自宅のそばで、同級生と一緒に機影の消えた方向を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。同級生は「マフラーを巻いた人間が見えた」と語ったが、「飛行機マニア」の野村さんは、目に焼き付いた機体が何か知りたくて、すぐ自宅に帰り「世界の翼」(朝日新聞社刊)で調べ、「英ハンドレページか米ロッキード・ハドソンの爆撃機じゃないか」と興奮気味に説明した。

 後日の新聞で、米軍のB25による初空襲だったことを知った。南区堀ノ内町付近で焼夷弾が落とされ、家屋が焼失。JR石川町駅に近い中区打越では、当時5歳の幼稚園児が機銃掃射を頭部に受け死亡した。しかし、初空襲で犠牲者が出たことを野村さんが知ったのは戦後になってから。「まだ空襲の恐ろしさを全く知らなかった」と振り返る。

 だが、超低空による奇襲は南方での緒戦の勝利に酔う軍部、国民に衝撃を与えた。野村さんもこう記す。《日本本土の防空防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを露見し、軍部も遅まきながら防空態勢の再検討を迫られた…わが家も早速、大工に頼んで庭の隅に半地下の防空壕(ごう)を作った》。

 ■非戦闘員ばかり犠牲

 20年4月に県立第三中学に進学した野村さんは「一生忘れることのできない日」、5月29日を迎えた。

 空襲警報が発令され、物干し台に上り、雁行する編隊の数を驚きながら数えていた。《10編隊目になった時、ザザーという音とともに、最初は無数の黒い豆粒が、みるみるグレーに変わり斜めに落ちてきた》

 「焼夷弾落下」と叫びながら階段を駆け下り、風呂場の外まで来たとき、地響きと物すごい爆音にとっさに地面に伏せた。顔を上げると、家の壁が燃え、塀や門柱が倒れていた。爆弾が家に直撃したのだ。「駆けっこが苦手だったのが幸いした。足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」

 家族も無事だったが、近くの寺院には遺体がリヤカーやトタン板で次々運ばれ、荼毘(だび)に付される光景を見た。市街は壊滅し、横浜市史資料室によると、死者3649人、負傷者1万人以上の犠牲を出した。

 「爆撃で犠牲になるのは、子供や老人など非戦闘員ばかり。それは今も変わらない」

 豊富な航空知識も生かし、資料を集めて横浜での空襲記録を調べ続ける。体験を美化することなく自分なりに事実を検証したい。祖父の洋三さんはニューグランド会長として20年8月30日、横浜に進駐したマッカーサー連合国軍最高司令官を出迎えた。野村さんの戦中、占領期を含む横浜現代史の講演は20回を超す。

 《空襲の全貌は、公式記録・個人の体験伝聞の集大成なくしてつかめない。しかしながら、当時から半世紀以上を経過し公式記録も出尽くした上、体験者の高齢化が進み、記録の再現が不可能になりつつある》

 最初に手記に書いてから、17年がたった。

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【用語解説】ドゥーリトル本土初空襲

 真珠湾攻撃の報復として米国民を奮い立たせる作戦をルーズベルト大統領が望んだ結果考案された。ドゥーリトル中佐率いるB25、16機は機動部隊により日本近海まで運ばれ、空襲敢行後、中国本土を目指したが、海上での不時着や燃料切れによるパラシュート脱出で計8人が日本軍の捕虜に。民間人を殺傷したとして軍事裁判で3人が銃殺刑となった。

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