兵農分離が行われる以前の武士は、多くがこのようだった。とはいえ、広忠は小領主の悲哀を正直に吐露し、家臣を責めなかった。家臣たちも農作業をする姿を恥じてはいたが、それもよき奉公のための苦労として耐えていたのである。主君と家臣の、理想的なあり方がそこにはある。
徳川家における三河時代からの譜代とは、こういう特殊な主従関係で結ばれていたと、彦左衛門は強調したかったに違いない。しかしそれは、やがて「徳川の世」が実現したことによって、関係自体が大きく変質してゆく。そうした「不気味な序曲」でもあったのだ。 =(下)に続く