その後、相手方から銃弾を腕に受けたが、出血する傷を探りながらこう言い放ったという。
「秀頼公の御運はいまだ尽きてはおらぬ」
慶長20年5月6日、大坂夏の陣の道明寺の戦い。又兵衛率いる兵2800の先発隊が未明に道明寺に到着したとき、徳川方の大軍勢はすでに布陣していた。
まもなく幸村や毛利勝永ら主力隊が合流することになっていたが、もはや待てる状況ではなく、又兵衛はまず小高く隆起した小松山(大阪府柏原市の玉手山)を占拠。間もない午前4時に開戦した。
「一帯の戦況を見渡せるだけでなく、10倍に及ぶ大軍勢を相手に持ちこたえるには最適の場所といえる。迷わず小松山を占拠したところに、又兵衛の秀でた戦略眼が感じられる」。柏原市立歴史資料館の天野忠幸学芸員はそう解説する。
濃霧による行軍の遅れからか、幸村ら主力隊の到着は大幅に遅れた。その間、兵1万の伊達政宗隊をはじめとする徳川方の大軍勢が小松山を囲んだが、後藤隊は独眼竜・政宗が誇る精鋭を次々と倒していく。
開戦から8時間が経過した正午。今度は伊達隊の名将、片倉小十郎重綱率いる鉄砲隊の一弾が、馬上で指揮をとる又兵衛の胸を撃ち抜いた。死を悟った又兵衛は「首をはねろ」と従者に命じ、首はその場で地中に埋められた-。56歳だったと伝えられる。