その他の写真を見る (1/4枚)
豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣で、徳川家康が「播磨一国五十万石」という破格の条件を提示し、自軍に引き入れようとした武将がいた。豊臣方の「大坂五人衆」の一人に数えられ、知将・真田信繁(幸村)と並び称される英雄、後藤又兵衛基次(もとつぐ)。希代の軍師・黒田官兵衛に才を見いだされ、傑出した武勇と知略を駆使して多くの軍功を残した豪傑も、大坂の陣に散った。(川西健士郎)
10倍の大軍勢相手に
播磨国(現在の兵庫県南西部)出身とされる又兵衛は、幼少時代に父を亡くし、黒田官兵衛が哀れんで引き取ったと伝えられる。官兵衛はその才を見込んで息子の長政以上にかわいがったといわれ、戦国一の軍師による薫陶に恵まれた。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで、徳川家康率いる東軍についた長政に従って戦い、西軍の石田三成が誇る槍使い、大橋掃部(かもん)を一騎打ちで破った。長政は関ケ原の功で筑前52万石を拝領。又兵衛は1万6千石の大隅城主となるが長政との確執から出奔し、諸国を流浪した。
大坂冬の陣が迫る慶長19(1614)年10月、秀頼の招きで大坂城へ。11月26日、城に近い今福村と鴫野(しぎの)村を守る砦柵(さいさく)が徳川方の佐竹義宣(よしのぶ)隊と上杉景勝隊に攻め込まれ、応戦した豊臣方の若武者、木村重成が敵の銃撃に押され堤防の陰で身動きがとれずにいたとき-。戦況を城から眺めていた又兵衛は秀頼の命で援護に駆けつけ、銃弾が飛び交う堤防に仁王立ちし、「戦(いくさ)とはこうするものぞ」と鉄砲を撃ち返した。
大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長は「これに勢いを得て木村隊が形勢を逆転する。実戦経験が豊富な又兵衛の迫力が戦況を一転させた」と語る。