金正日(キム・ジョンイル)が母に連れられ、「帰国」の途に就いたのは4歳のときだ。父の伝令兵で後の護衛局長、全文燮(チョン・ムンソプ)や後の朝鮮人民軍総政治局長、趙明禄(チョ・ミョンロク)におぶられ、1歳になったばかりの弟、金万一(マニル、ロシア名・シューラ)は母、金正淑(ジョンスク)が抱いていた。
一行は、旧ソ連極東のハバロフスクから汽車に揺られ、約600キロ南下し、ウラジオストクに着く。ソ連軍が提供した帰国船で、ソ連の地を後にしたのは、1945年11月26日だった。
一行はひとまず、朝鮮北東部、咸鏡北道(ハムギョンプクド)の現在の羅先(ラソン)に当たる雄基(ウンギ)港に降り立った。肌を刺すような冷たい風が吹く港には、新たな指導者の家族を歓迎する人波もなく、父、金日成(イルソン)の姿さえなかった。
歓迎する人波も、父の姿さえなく
一足早く帰国していた金日成は、ソ連軍の支援を取り付けることに躍起になっていた。
10月14日、平壌で開催された「祖国解放祝賀集会」の演説でデビューを果たした日成は、平壌西郊の万景台(マンギョンデ)を訪れる。秘書兼通訳や写真記者、ソ連軍政当局が遣わしたロシア人記者のほか、「平壌民報」編集長として、専ら日成を取材していた韓載徳(ハン・ジェドク)が同行した。