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昭和20年3月9日。東京の下町には冷たい強風が吹き荒れていた。翌3月10日は陸軍記念日。巷では、この日を狙って米軍が大規模な空襲を仕掛けてくるのではないかといううわさが流れていた。
このところ見かけることが減っていた子供の姿も、この日はやけに目立った。国民学校の児童の多くは、学童疎開で地方生活を余儀なくされていたが、6年生は母校での卒業式に出席するため、自宅に戻っていたのだ。
9日午後10時半、警戒警報が発令されたが、ほどなく解除された。東京都浅草区(現台東区)でプレス工場を営む父とともに暮らす相原孝次(85)=神奈川県箱根町在住、当時15歳=は、多くの都民と同様に、いつでも避難できるよう靴下を履いてゲートルを巻き、枕元に鉄カブトや防空頭巾を置き、眠りについた。
「空襲警報だ!」
10日午前0時15分。相原は父の鋭い声にすぐさま飛び起きた。米軍のB29爆撃機が最初に深川区(現江東区)木場の一角に焼夷弾を投下したのは午前0時8分。空襲警報が発令されたのはその7分後だった。すでに複数の地域で火の手が上がっていた。