「故郷の誉れ」に喜び
末吉氏は飛行学校に入校が決まったとき周囲から「故郷の誉れ」とたたえられたことに喜びを感じ、「これでやっとお国のために戦える。意気揚々と学校の門をくぐった」という。
また、特攻を命じられても「志願した覚えはなかったが、特に何も思わなかった。それが当たり前。まして、怖いなどとはみじんも感じなかった」と述べ、「考えていたことは一つだけ。戦友に後れを取ってはいけない。今では、なぜそんな心境だったのか、不思議になる」と振り返った。
本当の苦しみは特攻に失敗し、台湾や日本に戻ってからだった。
石垣島に不時着した後、米軍機の空襲に遭うなど、命からがら1カ月後に台湾に戻ったものの、当時上官から「無事の生還を遺憾に思う」、「戦闘機は1機3万円だ。貴様らはそれを壊して生きて帰った」などと言われ、針のむしろだったという。
再出撃の命令出ぬまま
その後は機体が足りないこともあり、再出撃の命令は下されないまま終戦を迎えた。軍服を落花生やバナナと交換して食いつなぎ、21年2月、故郷に帰った。
だが、故郷には帰りを喜んでくれる家族の姿はなかった。19年9月に起きた水害で家が流され、両親と妹は亡くなっていた。
「自分の身代わりになってくれたのかと思った。母方の実家に身を寄せ、ひっそりと暮らしていこうと決めた。特攻の死に損ないなんてみっともない」
こんな思いが頭を離れなかったことが、特攻や戦争体験を誰にも話さないことにした理由だ。