静岡人語り

元プロレーサー 関谷正徳さん(65)(中)

 ■憧れのル・マン24時間に挑戦 1995年には日本人初の総合優勝

 昭和57年、レースの世界に見切りをつけたはずの私は、トヨタ車のパーツ開発・販売やレース活動を行う「トムス」の館信秀さんから「うちと契約しよう」と誘われます。あちこちのレースで活躍しているチームだったので、「お願いします」と即決しました。

 翌年から、私はレースに参戦しながら、レーシングカーの開発を進めることになります。当時はレーシングカーの設計も模索状態。最初に乗った82Cという車はボディー剛性がないし、エンジンも非力で「なんだこりゃ」という感じでしたが、83C、84Cと毎年少しずつ性能が向上していきました。

 このころ、私は自分の体力のなさを痛感していました。レース中、われわれの心拍数は1分間に180~190くらいに上がる。これはマラソンランナーとほぼ変わらない数値です。この状態で、車や路面などについて冷静な判断ができないといけない。「モータースポーツ」という言葉の通り、レースはスポーツなんだ、とようやく理解し、私はあわててトレーニングを始めたのです。

 そして1985(60)年、85Cで私は中嶋悟さん、星野薫さんとともに初めて仏のル・マン24時間レースに出場します。憧れのル・マンは、スティーブ・マックイーン主演の映画「栄光のル・マン」(1971年)そのものの世界でした。観客の熱狂、順位表示のネオンサイン、美しい女性たち…。欧米の人々は、ああいう演出が実にうまい。

 ル・マンでは、コースの直線があまりに長いことに驚きました。車が加速し切った後も、まだ直線が続く。時速は330キロを超え、車がぐうーっと猛烈な力で押さえつけられ、タイヤが破裂するんじゃないかと気が気じゃない。しかも、一般道を利用しているので、路面のわだちで車が暴れるんです。怖かった。本当に怖かった。

 そんな状態で、ポルシェやほかの車にばんばん抜かれながらも、どうにか12位で完走しました。日本はそれまで何度もル・マンに挑戦していましたが、完走したのはこのときが初めて。帰国後にトヨタの豊田章一郎社長に社長室まで呼ばれ、「よくやった」とほめていただきました。当時、日本車は世界を席巻しつつありましたが、モータースポーツの世界では、まだ駆け出しだったんです。

 それから86C、87Cと私はレースを戦いながら、エンジニアと共同で車を作り上げていきます。このころ私が気付いたのは、レーサーには「車の能力を引き出す能力」と「問題点を正しくエンジニアに伝える能力」の2つが必要だ、ということです。同じ性能の車なのにレーサーによって速さが変わってくるのは、運転技術だけでなく、コメント能力の差も大きい。トムスで毎年新しい車の開発に関わったことは、私にとって大きな財産となりました。

 92年、ル・マンで2位を獲得。そして95年、私はマクラーレンのチームから招かれ、とうとう日本人初の総合優勝を果たしました。

 すでに45歳で、体力のピークもすぎた私が優勝できたのは、激しい雨のせいでした。雨のため、ハードなブレーキもいらず、コーナースピードも落ちる。体力よりも技術や経験が必要なレース展開でした。初挑戦から10年、優勝が決まった瞬間は、うれしいというより、「やれやれ」という感じでした。とにかくほっとしました。

 平成12年10月、「SUZUKA GT 300km」を最後に、私は引退します。「勝たなくていいから続けてほしい」という声もありましたが、それはスポーツとしてのレースではないと思い、身を引くことを決断したのです。(構成 岡本耕治)

                   ◇

【プロフィル】関谷正徳

 せきや・まさのり 昭和24年11月27日、井川村(現静岡市葵区)生まれ。58年からレーシングチーム「トムス」所属のレーサーとして活躍。1995年のル・マン24時間耐久レースで、日本人初の総合優勝を果たす。平成12年に引退後はトヨタ・ドライバー育成プログラム(FTRS)校長、スーパーGTのトムスチーム監督を務める。

会員限定記事会員サービス詳細