正論

「表現の自由」に潜む言論の劣化 社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋

 むろん、清水は表現に大幅な制限があった検閲の時代がよかったと言っているわけではない。表現の自由を得たことによってかえって、表現における工夫や機智を磨くことが少なくなってしまった、と表現劣化の問題を提起しているのである。

 表現への制限がなくなったことで、刺激の強い言語(表現)が使用されるだけではない。同じ意見を持つ仲間内にのみ通じる単調な文体や陰影のない表現法に傾きやすくなる。表現者と考えや嗜好(しこう)がちがう読者や視聴者の心にも届くようなレトリックの妙味が影をひそめる。ややもすると、表現はアジビラやアジ演説による異議なしの世界になってしまう。

 揚げ句の果てが、動画投稿における過激映像アップ競争。表現の自由や「アート」活動と言い募りながら、繰り出されるヘイトスピーチや耳目を驚かせるだけが取りえの「芸術」作品。表現における過激と刺激の一本調子が大手を振って闊歩(かっぽ)するにいたっている。

 ≪「強い言葉」だけの極論競争≫

 翻って、敗戦後から70年代あたりまでに書かれた総合雑誌の論文を考えてみたい。当時の左派論客の名論文といわれたものの、かなりが、今ではほとんど読むに堪えない。そう思えるのは、イデオロギーのせいとばかりは言えない。そのころの論壇は左派論客の独壇場だった。

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