正論

「表現の自由」に潜む言論の劣化 社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋

 金正恩(キム・ジョンウン)暗殺を描いた映画に対する報復で、北朝鮮が米国にサイバー攻撃をしかけた。続いてパリの週刊紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことで、死傷者を出す襲撃を受けた。

 サイバー攻撃やテロ攻撃はもちろん許されるべきではないが、今回の風刺画を転載するかどうかを巡って、日本を含めて世界の新聞社の対応がまちまちだったことに象徴されるように、改めて表現の自由が問題の焦点となっている。

 ≪検閲時代に錬磨された技術≫

 表現の自由となると、公序良俗に反するかどうかの線引きをどこでするかの議論がなされることが多い。だが、表現の自由がかかえる問題がそれに尽きるわけではない。たとえ公序良俗に反しなくとも別の問題もあるはずである。ここでは「表現の自由」がかえって「表現の劣化」を伴いやすいという逆説を取り上げたい。

 このことを考えるときに、私は希代の文筆家だった清水幾太郎がいまから30年以上前に書いた「検閲とレトリック」(1977年)という論稿を思い出すのである。

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