本拠地ノエビアスタジアム神戸での試合前、ヴィッセル神戸のスタンドは他のサッカー場とは異なる雰囲気に包まれる。サポーターが合唱する「神戸讃歌」。歌詞はこんな言葉で始まる。
「俺たちのこの街に お前が生まれたあの日 どんなことがあっても 忘れはしない 共に傷つき 共に立ち上がり…」。サポーターとクラブが一体となって阪神大震災を乗り越えてきたとの思いが込められている。
クラブは震災が発生した1995年1月17日、記念すべき第一歩を踏み出す予定だった。前年に大手スーパー、ダイエーをメーンスポンサーに前身の神戸オレンジサッカークラブが発足。Jリーグ参入を目指すチームの初練習が震災当日に行われることになっていたからだ。
その日、強化部長だった安達貞至は外国人選手を獲得するため、ポルトガルにいた。「午前5時ごろでしたかね。同行していた通訳からの電話でたたき起こされたんです。『神戸が大変なことになっている。すぐにニュースを見てください』って」
テレビのスイッチを入れると、悲惨な光景が映し出された。倒壊した高速道路、ねじ曲がった線路…。旅程を短縮してその日のうちに帰国の途についた。
ポートアイランドにあった事務所にスタッフが集合できたのは1月下旬。神戸市西区の練習場はがれき置き場になっていた。神戸での練習をあきらめ、川崎製鉄サッカー部からチームを引き継いだ縁で、岡山でトレーニングを始めた。
苦難はそれだけではなかった。「当時の社長から『重大な話がある。練習前に選手を全員集めてほしい』と連絡があったんです」と安達。告げられたのは、地震で社業に大きなダメージを受けたダイエーの撤退だった。
メーンスポンサーがなくなれば、クラブも存続できない。その場で泣き出す選手が何人もいた。個々の選手と面談し、獲得に携わってきた安達も胸が詰まったという。
それからは金策に走り回った。神戸市役所を訪ね「助けてください」と頭を下げた。翌月の選手の給料を支払うのにも四苦八苦する自転車操業。安達は「うれしかったのは、神戸市から『なんとかサッカーを頑張って市民に喜びと元気を与えてほしい』と言われたこと」と振り返る。
安達には忘れられない光景がある。96年のシーズンの最終戦。Jリーグ昇格が懸かった神戸ユニバー記念陸上競技場での試合に約2万4千人が詰めかけた。
「まだ大変なときなのに、お客さんがどんどん入ってくる。本当に感激しました。来てくれたお客さんや、神戸の街のために何かをしなきゃいけない」
その時に感じた安達の思いは今もクラブに息づいている。毎年の1月17日。選手、スタッフが集まって震災の映像を流し、犠牲者に黙とうする。震災から歴史が始まり、被災者の市民に育てられたクラブ。「共に傷つき、共に立ち上がった」記憶は世代を超え、神戸のユニホームに袖を通す選手に受け継がれている。=敬称略(北川信行)
安達貞至
あだち・さだゆき 1938年4月4日生まれ。兵庫県出身。関学大からヤンマーに入社し、サッカー部でプレー。94年12月に退社し、神戸の強化部長に就任。横浜フリューゲルスのゼネラルマネジャー(GM)を経て2005年に神戸にGMとして復帰。社長、副会長を歴任し相談役。
阪神大震災発生から20年。活動拠点が被災したプロ野球のオリックスやサッカーのヴィッセル神戸などの関係者に当時の記憶や「スポーツの持つ力」について聞いた。