真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる 大阪

真田丸があったと推定される地域。周辺は急勾配の坂が多い=大阪市天王寺区餌差町
真田丸があったと推定される地域。周辺は急勾配の坂が多い=大阪市天王寺区餌差町

 徳川家と豊臣家が国を二分して戦った「大坂の陣」。その豊臣方の知将・真田幸村が大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられてきたが、最新の等高線調査によって、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まった。専門家は「あえて敵の標的となって大軍を引き寄せた」と推測。実際、幸村は真田丸をめぐる攻防戦で徳川軍の主力を散々に打ちのめした。その戦略の真意とは-。(川西健士郎)

専門家も舌巻く作戦

 「まさに背水の陣。血祭りに上げてくれ、といっているようなものだ」と、真田丸が孤立無援の砦だったとする新説を唱える奈良大学長の千田嘉博氏(城郭考古学)。「真田丸攻防戦の幸村の戦いは、従来の常識とはまったく違う」と言い切る。

 大坂の陣は慶長19(1614)年、最初に冬の陣が勃発。翌年の夏の陣に続く前哨戦と位置づけられる。

 全国の大名を主力とする徳川軍20万が大坂城を包囲。豊臣軍10万が城に籠もった史上最大の籠城戦だ。その最も激しい戦闘が真田丸攻防戦だった。