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天皇陛下が昭和19年7月から疎開されていた栃木・日光にも、20年に入ると空襲の警報が響き始めた。
ほどなく「疎開とは言わず、『夏季錬成だ』と言われて奥日光に行くことになった」。陛下と学習院初等科の同学年で最後まで疎開をともにした明石元紹(もとつぐ)さん(80)は振り返る。
標高約650メートルの日光から約1500メートルの奥日光へ、いくつもの急カーブが連なる「いろは坂」も越えてたどり着いた先が、硫黄のにおいが立ち込める湯元温泉だった。
日光では授業以外は約4500平方メートルの田母沢(たもざわ)御用邸で起居したが、奥日光では同級生らが暮らす南間(なんま)ホテル本館と同じ敷地の別館に入られた。「次の天皇」を守り抜くためとはいえ、施設を選んではいられない状況だった。
2階建ての別館は現在、栃木県益子町内に移築保存されている。手すりに擬宝珠(ぎぼし)がついた急な階段を上がり、2階の7室のうち左手奥が8畳、10畳、5畳の3間からなる奥の間。隣室に側近らが控え、陛下はここを居室兼勉強部屋、1階の部屋を寝室とされた。付近には防空壕(ごう)が新設された。
級友と授業を受けつつ、敷地内の畑を耕し、戦場ケ原や金精峠(こんせいとうげ)などで野草や山菜を採られた。
食糧は慢性的に不足していた。「陛下も、国民と同じようなひもじい思いをされた」と明石さんは言う。