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パラオ・ペリリュー島の戦いが終わってから1年足らずで日本は敗れた。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び-」
昭和20年8月15日正午。ラジオから流れた昭和天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)が日本と日本人にとって一大転機となったこの瞬間、皇太子だった11歳の天皇陛下も父の声を聞かれていた。場所は、栃木・奥日光の山深い湯元温泉の老舗「南間(なんま)ホテル」(現在は廃業)別館2階奥の間。当時は「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた皇居から約130キロ離れた、疎開先だった。
側近らは周りで立ち尽くし、むせび泣いた。「陛下の放送で日本が負けたことをはっきり知った」(昭和49年のお誕生日会見)というご様子を、ホテル関係者は「頭を垂れ、正座したひざに置いたこぶしはぐっと握り締められていた」と側近から聞いている。
南間ホテル元社長、南間元(はじめ)さん(66)は、皇室関係者以外では最もそばでお世話をしていた祖母の康(やす)さんの言葉を何度も聞いていた。
「『あの日から、殿下の雰囲気や表情の緊張感が変わられた。はっきりと』。そう話していました」
疎開は19年5月、学習院初等科の同級生らとともに沼津御用邸(静岡県沼津市)で始まり、同年7月に栃木・日光、20年7月に奥日光・湯元温泉-と移られた。皇太子が山側へ転々と移動されるという行程は、日本が厳しい状況に追い詰められつつあることも示していた。