産経抄

苦闘の物語、再び 10月1日

 東海道新幹線の生みの親は誰か。その歴史に少しでも触れたことのある人なら、ためらいなく第4代国鉄総裁の十河(そごう)信二と技師長の島秀雄の名前を挙げるはずだ。しかし、50年前のきょう、東京駅で行われた開業一番列車の出発式に、2人の姿はなかった。

 ▼もともと戦時中から、東京から下関を経由して、海底トンネルで大陸に向かう「弾丸列車」の構想があった。昭和30年に国鉄総裁に就任した十河は、それを引き継いだ「夢の超特急」の実現を、鉄道技術者の島に託す。

 ▼ただ、当時世間で幅を利かせていたのは「鉄道斜陽論」である。万里の長城とピラミッド、戦艦大和に並ぶ「無用の長物」とする反対論も根強かった。国鉄内でさえ、資金と人材を新幹線建設に集中投資する十河のやり方に、不満の声が高まっていた。

 ▼開業の前年には、巨額の予算不足が明らかになる。十河は、責任を取る形で総裁を辞任し、島も殉じて国鉄を去った。開業までの道のりが、いかにけわしいものだったか。晴れの舞台に2人が招待されなかった事実が、象徴していた。今となっては、戦後の日本が打ち立てた偉業のひとつだと、誰もが疑わないというのに。

会員限定記事会員サービス詳細