九州の礎を築いた群像 TOTO編(8)

七人の侍インドネシアで苦闘

 ■国際事業「おめおめ辞めてなるもんか」

 「ブラジルには進出したばかりじゃないか。まさか、あの建物のコンペに勝つなんて、驚いたな…」

 今年3月、15代社長の張本邦雄(63)=現会長=は、海を渡って届いた報告にわが耳を疑った。

 サッカー、ブラジルワールドカップ(W杯)開幕戦の舞台となった「アレーナ・デ・サンパウロ」に、最新鋭の節水トイレなどTOTO製品の納入が決まった。6万5千人収容のスタジアムは、2016年のリオデジャネイロ五輪でも使用される。ブラジルが国の威信をかけた建物に、TOTOブランドが採用されたという朗報だった。

 TOTOは海外進出を3つのステップを踏んで進めてきた。まず、空港や大型ビルなど、その国を象徴するランドマークに納入、それを足がかりにブランド浸透を図り、やがて一般消費者への拡大を図る。

 ブラジルには11年1月に営業拠点を設立したばかり。地場の有力メーカーが圧倒的なシェアを占め、TOTOの知名度はゼロに等しい。ブラジル進出という経営判断を下した張本でさえ、ランドマークへの納入はまだ数年かかるだろうと考えていた。

 アレーナ・デ・サンパウロのコンペで決め手となったのは、米国や中東、ASEAN(東南アジア諸国連合)におけるTOTO製品の実績だった。他国での成功が相乗効果を生み、新たな国での成功に結びついたのだ。

 「わが社が海外事業を本格化させて40年。これまでのやり方は決して間違ってなかった」

 張本は心の中で、ブラジルで活躍した部下をねぎらうとともに、海外事業のレールを敷いた先輩に感謝した。

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 1978年1月6日。小倉駅(北九州市小倉北区)に、重渕雅敏(79)=13代社長、現特別顧問=ら7人の社員がいた。

 夜行列車に乗り、翌朝、羽田空港からインドネシアに旅立つところだった。インドネシアでは、衛生陶器の生産工場設立という大仕事が重渕らを待っている。東陶機器(現TOTO)初の本格的な海外進出だ。

 ところが、ホームには7人の家族と、数人の社員が見送りに来ただけ。送別会もないままの寂しい門出だった。

 東陶機器は当時、杉原周一(7代社長、1907~1972)という強力なリーダーを失い、混乱していた。インドネシア進出も役員の満場一致の賛成で決まったのではなかったのだ。

 スハルト政権下のインドネシアでは、衛生陶器に対する輸入関税引き上げの噂があった。東陶機器は、現地の企業を代理店とし、日本から製品を輸出・販売していたが、この代理店企業からインドネシアでの生産を要望する声があがった。

 インドネシアのホテルや大型商業施設は、戦時中、日本軍が建設した建物を使っており、東洋陶器時代の製品も多く残っていた。現地で「東陶」の認知度は高い。それだけに、代理店企業の求めに応じ、現地生産に踏み切ろうという役員もいた。

 だが、焼き物である衛生陶器生産には職人技が必要だ。土を窯で焼くと収縮する。便器など大型の焼き物の場合、部分部分の厚みなどによって、収縮率が異なる。これを見誤ると、ひびが入ったり、他の部品との接合がうまくいかず、製品にならない。

 果たして、インドネシアで国内と同等の製品が作れるのか-。こういぶかる役員も多かった。

 結局、インドネシア進出は決まり、責任者に当時42歳の重渕が選ばれた。重渕は、中津工場(大分県中津市)の新設や藤井製陶(愛知県)の工場増設を指揮し、社内で「工場請負人」と呼ばれていた。

 社内のゴタゴタを反映し、ある役員は渡航前の重渕に「3年以内の黒字が事業継続の条件だ。国内製品と同等の外観・品質を作らなければならないが、予算はびた一文追加しない」と冷たく言い渡した。

 それでも「工場請負人」は腐らなかった。常日ごろから「日本だけでは限界がある。日本で培った技術や製品を海外の人に知ってもらうことが、わが社の未来にとって大事なんだ」と海外雄飛を訴えてきたこともある。

 重渕は自ら選んだ6人の仲間とインドネシアに向かった。

 「失敗したら会社に戻れない! おめおめと辞めてなるもんか」

 自らを「七人の侍」と呼んだ東陶機器社員だが、前途は多難を極めた。

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 「生産技術を高めるどころか、工場の壁に落書きしたり、ひどいやつは物を盗んでいくぞ。どうする?」

 首都ジャカルタの南、車で1時間半ほど走ったスルポン。「スルヤTOTOインドネシア」の副社長に就任した重渕は、工場長の小杉建博(後に取締役)に相談した。

 ベトナム戦争が終結したのが1975年。東南アジア諸国は依然、発展途上国で、民情は不安定だった。

 東陶機器に先立って東南アジアに、技術指導などの形で進出したライバルの伊奈製陶(INAX、現リクシル)もストライキや中途退社に悩まされていた。

 まして、東陶機器が進出したインドネシアは当時、東南アジアの中でも治安が悪く、重渕らが泊まったホテル周辺では強盗事件も多発した。

 重渕らは、仕事ができるできないよりも、性格が丁寧で信頼できそうな40人を採用した。それでも、現地従業員に手を焼いた。

 「従業員の心をつかむことが第一でしょう」

 小杉は、こう重渕に答え、従業員に昼食の提供を始めた。

 現地の従業員のほとんどは貧しく、空腹でやせこけていた。工場の入り口でミルクとパンを無料で配った。

 胃袋を満たした後は、待遇の改善を約束した。4カ月ごとに、能力に応じて給与を改定することを打ち出した。従業員の人生設計についての相談にも乗った。

 もちろん、重渕らも率先して働いた。毎日朝6時から日付が変わるまで。生産の技術指導や、販路拡大とそれぞれの役目に邁進(まいしん)した。

 徐々に現地従業員の、重渕や小杉らを見る目が変わってくる。日本人スタッフを信頼するようになると、働きぶりも変わってきた。日本人以上に真面目に仕事に打ち込む。欠陥品の減少など生産技術が、国内工場のレベルに到達するのに、時間はかからなかった。

 生産開始から半年後、TOTOインドネシアは単月で黒字を達成した。日本から満足な後方支援を受けられないまま、本社が課した「3年以内の黒字」を大幅に前倒しした。

 成功を聞きつけると、本社から経営幹部が、重渕の下へ次々と訪れた。皆、「成功すると俺は思っていたよ」と口をそろえた。

 重渕らは苦笑するしかなかった。

 「あんなに後ろ向きだったのによく言うよ。こっちは身を削る思いでやってきたんだ…」

 「七人の侍」が基礎を作ったインドネシアの工場は現在、7基の大型トンネル窯を抱える。そこから生まれる製品は、日本国内のTOTO工場の総生産量を凌駕(りょうが)し、米国やベトナムなどへ輸出する一大拠点に成長した。

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 インドネシアに3年間滞在した重渕は、その後も海外事業を担い、1994年に副社長に就任した。

 97年12月、重渕の下に、米国から帰国した経営戦略室長の木瀬照雄(67)=14代社長=が飛び込んできた。

 「やり方を変えれば市場は無限にあります! 日本と同じような代理店方式があるので、国内の営業手法を導入し、うちの品質の良さをしっかりプレゼンテーションしましょう。アメリカ最大手のコーラー社にだって、十分対抗できます」

 木瀬は、重渕の命を受け、米国事業の進退を判断するため、米国をつぶさに回ったのだった。

 1990年、東陶機器は米国に進出した。トイレなど衛生陶器やウォシュレットで、日本の3倍もの市場が見込まれるからだ。

 だが、市場が大きな分、競争も激しい。コーラー社やアメリカン・スタンダード社といった現地の大手との低価格競争に陥り、収益は悪化の一途をたどる。95年には富裕層にターゲットを絞り込み、低価格商品からの撤退も決断したが、米国事業は赤字が続いた。

 重渕は、木瀬が無理だと感じたら、米国から撤退しようと考えていた。木瀬は営業畑が長く、重渕が信頼する部下の一人だった。

 木瀬の目に映ったのは、生産部門と販売部門の連携がうまくいかず、みすみす商機を逃す米国事業の実態だった。

 ライバルの製品は、東陶機器の製品に比べると作りが雑で、施工後のトラブルも多かった。

 「米国では生産部門の力が強すぎる。もっと営業と一体となって、自社製品の良さをアピールできれば、いくらでも売れる」

 木瀬はこう感じた。日本のメーカーが陥りやすい「高機能の物さえ作れば売れるはず」という考えに、東陶機器もまた、陥っていた。

 重渕は木瀬の進言に従い、営業経験が豊富なスタッフを米国事業のトップに据え、製造・販売の一体化に努めた。

 次第にブランド力は高まった。

 そして2002年10月、米国で信頼性の高い民間調査会社「NAHBリサーチセンター」による試験で、TOTOブランドの節水型便器が、洗浄性能1~3位を独占した。

 これが追い風となり、衛生陶器の販売は伸長した。02年下期に半期ベースで初の黒字に転じ、03年には悲願の黒字を達成した。

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 その後も木瀬、張本の社長時代を通じて、TOTOは海外進出を加速した。

 その際に企業の買収・合併(M&A)には頼らない。10年以上の長期をにらみ、その国その地域の文化にあった製品を作り、じわじわとブランド力を高めていく。M&Aを積極活用するライバルメーカー・リクシルの「狩猟型」に対し、TOTOの手法は「農耕型」と評される。

 今年、TOTOはインド・グジャラート州に工場を建設した。

 「インドの発展があってこそ、TOTOの成長もあります。今後もここグジャラートの地に根ざし、インドの皆さんに愛される企業となれるよう、現地の従業員とともに、事業を育成してまいります」

 8月20日。16代社長、喜多村円(まどか)(57)は開業式典で、政府の関係者ら約350人に、こう語った。その言葉にTOTOの「農耕型海外進出」が体現されていた。

 喜多村はことあるごとにこう、社員に呼びかける。

 「現在18%の売上高海外比率を2017年に24%とする。だが、将来は50%を目指す。それは私の社長時代でないかもしれないが、必ず達成する。そのための議論をしっかり煮詰めよう」(敬称略)

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 「九州の礎を築いた群像」が産経新聞出版から書籍化されます。西日本鉄道、JR九州、安川電機、西部ガスの4編を収め、「九州を創る男たち なぜ地方企業が日本と世界を唸らせたか」のタイトルで9月12日発売です。価格は1300円(税別)。

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