戦いはわずか1日で幕府軍の勝利に終わったが、現在の京都御苑の南端、堺町御門近くの鷹司(たかつかさ)邸や、現在の京都市役所近くにあった長州藩邸などから出た火がまたたく間に市中に広がった。
迫り来る猛火
火災は北は丸太町通から南は七条通まで、東は寺町通から西は今の西大路手前までおよび、約2万7000世帯の民家ほか東本願寺や本能寺、六角堂などの寺院も焼失する。
そして、御所の南西に位置する二条城や六角獄舎に火が迫ってきたのは、戦いもすでに決着がついた20日のことだった。
火や煙が折からの強い風にあおられて、しだいに迫って来た。時を追うごとに目が染むほどに煙も濃くなってくると、急に六角獄舎内の動きもがあわただしくなってきた。
いざ火災となれば、どんな犯人でも一時的に解き放ちにするのが決まりとなっていた。
だが、囚人の中には、池田屋事件」で新選組に逮捕された古高俊太郎や「生野の変」の首謀者、平野国臣ら過激派も少なくない。
古高は四条河原町近くに諸藩御用達の商人「枡屋(ますや)喜右衛門」を名乗り、表向きは古道具などを商いながら幕府の動きを探り、尊王尊攘派浪士と連絡をとりながら武器調達を続けた。
一方、平野は薩摩藩主が倒幕目的で上洛すると誤解して福岡藩にも挙兵協力の嘆願をして捕えられ、その翌年には、大和で挙兵した「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」に合わせて但馬・生野の代官所を占拠する「生野の乱」を起こしている。
いずれの計画も失敗に終わったが、2人とも相当に筋金入りの活動家。しかも古高については、浪士による奪還の噂がまことしやかに流れていた。
このため牢屋を管理する町奉行所にとって、まさに弱り目にたたり目の状況だった。