■人々を守った命の番人
忠犬ハチ公の故郷は秋田県北の大館市だが、県南の横手市平鹿(ひらか)町には「忠猫(ちゅうびょう)」と刻まれた碑がある。
明治時代の大地主、伊勢多右衛門(たえもん)(1833~1914年)の庭園だった浅舞(あさまい)公園の片隅にあるこの碑の意味は、地元の人にも知られていなかった。
「『忠猫』ってなんだろうと、ずっと疑問でした。三味線に使った猫を弔う碑なのかもしれないと。でも、それなら『忠』じゃないし…」
そう思っていた社会福祉法人理事長の畠山博さん(76)は4年前、小学校教諭の簗瀬(やなせ)均さん(56)に伊勢家の古文書を読み込んでもらい、次のような経緯を知った。
多右衛門は貧しい人を助けたり凶作や災害に備えるために、感恩講という慈善組織をつくり、コメを蓄えていた。庭園を人々が憩う公園にする工事も進めていた。
ところが、村のあちこちにある米蔵はネズミに荒らされ、庭園は野ネズミやヘビによって木や側溝、堤に被害が出ていた。
すると、飼っていた白まだらの雌猫が米蔵を回ってはネズミを捕り、庭園の野ネズミやヘビも10年ほどかけて絶滅させた。
多右衛門は自分の意を体して働く猫に感動した。その姿は、神仏が乗り移って人々を守ろうとする「命の番人」に見えた。生涯、子供を産まず、聖女のようだったという。
猫は明治40(1907)年2月15日、13歳で死んだ。多右衛門は翌年、この話を末永く伝えようと、庭園に碑を建てた。「永遠にこの功徳を伝えたい。碑を見る人々よ、忠義な猫の功績を忘れないでほしい」。多右衛門はそう書き残した…。
忠猫碑の真相を知った畠山さんは「忠猫の話は全国的に珍しい。この史実をまず地元の人に知ってもらい、さらに地域振興にもつなげたい」と考え、有志と一緒に準備。2年前に「『忠義な猫』でまちおこし推進委員会」を発足させ、会長になった。
忠義な猫にちなんだ歌のCDを作ったり、詩人や民話の専門家に頼んで昔語りに仕立ててもらったりした。「忠義な猫杯」カラオケ大会を開催。観光土産にと、「招福猫サブレ」も発売した。今後は踊りも創作する予定だ。
学校現場でも取り上げられている。平鹿中美術部の生徒たちが絵を描き、横手高放送部が編集して紙芝居DVDを制作。浅舞小の児童の研究成果が小学校社会科研究発表会で発表され、高い評価を受けたこともある。
簗瀬さんは「動物だって人に尽くすこともあるんだと、子供たちに感動を与える話。教材に適しています」と話す。
忠猫碑は来年、浅舞公園に隣接する浅舞八幡神社の境内に移設される予定だ。近くには「忠義な猫」に関するパンフレットなどを置く案内所も設ける。
「今後は行政も巻き込んで、全国にPRしていきたいと思います」。畠山さんの夢は膨らむ。(渡辺浩)
◇
■メモ 「『忠義な猫』でまちおこし推進委員会」の連絡先は(電)0182・24・3386。招福猫サブレは「おかしの加賀屋」で販売している。息子たちと店を切り盛りする加賀屋愛子さん(64)は「食べやすいと、子供にも年配の人にも人気です。地元の名物にしていきたいと思います」と話す。1個103円、8個入り929円。(電)0182・24・1167。