香芝の82歳女性、戦争の悲惨さ語り継ぐ 奈良

 「私の戦争が終わることは、生涯ありません」-。香芝市の主婦、鈴木知英子さん(82)は今でも鮮明に69年前の「あの日」を覚えている。終戦直前、女学生だった鈴木さんは米軍艦載機による機銃掃射を受け、首や腰などに重傷を負った。頸椎(けいつい)には今も銃弾の破片が残り、鉛毒で生命の危機にさらされたこともある。「戦争はすべての感情を奪う。悲惨さを語り継ぐのが私の仕事」。そんな強い使命感から、小中学生らに戦争体験を語り続けている。

 昭和20年7月。旧制高田高等女学校2年生だった鈴木さんは勤労奉仕のため、毎日柳本飛行場(天理市)に通っていた。滑走路を作るため重い土を運ぶ作業は空腹の身にこたえたが、「お国のために、としか考えていなかった」。

 「あの日」も勤労奉仕に向かうため、いつもの時間に現在のJR王寺駅で列車に乗り込んだ。その時、突然鳴り響いたのは空襲警報。「列車から降りろ!」「駅から離れろ!」。誰かが叫んだ。あわてて自宅に向かって走った。

 だが、操縦士の顔がはっきりと分かるほどの距離まで米軍の艦載機が近づいた途端、目の前が見えなくなるほどの機銃掃射を浴びた。頭から背中にかけて無数のやけどや切り傷を負い、気がついたときには救護所の土間にうつぶせに寝かされていた。隣では、ついさっき「おはよう」とあいさつを交わした女性駅員が亡くなっていた。

 「もう怖いとか悲しいとかつらいとか、そんな感情は通り越していた」

 薬やガーゼはなく、親指ほどの銃弾を医師がピンセットでつまみ出しただけで処置は終わった。家で被害にあった妹は頬を銃弾が貫通し、顔中血だらけだった。

 終戦から40年以上がたったころ、医師から「頸椎に金属製の異物がある。心当たりはないか」と聞かれ、あの銃弾だと直感した。当時まだ40代と若かったにもかかわらず、鉛毒の影響で髪は真っ白。歯も全て抜け落ち、慢性的な頭痛にも悩まされていた。医師からは「放置すれば命を落とすか、植物状態になる」と告げられた。昭和58年、銃弾の摘出手術を受けた。リハビリに耐え、1年後には自分で歩けるように。だが、メスで取り切れなかった破片は今も頸椎に残り、「傷がうずくたび『戦争を忘れるな』といわれているように感じる」と話す。

 「あの日」まで、「奈良に空襲はない」と信じていた。住んでいた王寺町からは夜になると、大阪方面の山側の空が空襲や焼夷弾(しょういだん)で真っ赤に燃え上がっているのが見えた。翌日になれば大阪から髪や服が焼け焦げた人々が逃げてきたが、それも「日常の光景」だったという。

 「今思うのは、戦争というのは人間としての感情を奪うんだな、ということ。人の『死』にさえ、感情が麻痺(まひ)してしまう。それが一番怖い」

 鈴木さんはこれからも、子供たちに語り続けるつもりだ。「戦争は人間としての良心もなくなってしまう。もう二度と、起こしたらあかん」

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