話の肖像画

北極冒険家・荻田泰永(36)(1)五感が研ぎ澄まされる

 〈今年3月7日(現地時間)、カナダ最北端のディスカバリー岬から780キロ先の北極点まで海氷上を歩く冒険に出発した。食料などの補給を一切受けず、独りで大小2台のソリ(計120キロ)を引きながら進む「無補給・単独・徒歩」。一昨年に続く2度目の挑戦だったが、半分ほど歩いた44日目の時点で断念せざるを得なかった。成功すれば日本人初、世界で3人目の快挙となるはずだった〉

 山登りと違って海抜ゼロメートルの氷の上をずっと歩いていくので楽だと思われがちです。だが海面が動くと、氷と氷がぶつかって高さ10メートルもの盛り上がりができる。この乱氷を越えていかなければならないし、大小の乱氷が数多く続いて乱氷帯になっている場合もある。

 気温は氷点下40度以下。目に見えるのは色のない雪と氷の世界。隆起した氷が光の当たり方で青または緑っぽく見える。ホッキョクグマはいないわけではないが、陸地に比べて少ない。精神的にも過酷で、歩き出す直前に怖くて泣いた。断念してカナダのイヌイット村のレゾリュートに戻ってきた後も、不安感や恐怖心から1週間、睡眠中にうなされ続けました。

 「どうしてそんなことをやるのか」と聞かれてもその答えを見つけるのは難しい。「やりたいからやる」としか言いようがない。「どこからそんなエネルギーがわいてくるのか」と質問されても困る。イヌイットに「クレージーだ」と言われたこともある。それでも北極は生と死がとても近くにあり、自分が生きることに一生懸命になれる場所です。

 生きるとはどういうことなのか。この日本という社会の中でも当然、みな一生懸命生きようとしているけど、何かが足りない。北極と一般社会との間には大きなギャップがある。社会の中では人間が本来持っている感覚を閉じていないと、生きられない。ところが北極に行くと、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が開いて鋭くなる。五感が異常に研ぎ澄まされる。

 7年前、レゾリュートからケンブリッジベイ(カナダ)まで1千キロの単独徒歩の冒険に出たときでした。ちょうど中間地点まで来たところで、燃料のガソリンが入ったボトルを落としてガソリンにコンロの火が引火してテントを焼き、両手に大やけどを負った。衛星電話を取り出して「これ以上、続行はできない」と飛行機のピックアップを要請した。

 その後のことです。テントの外で何かが呼吸するような音が聞こえた。「来やがった。最悪のタイミングだ」。ライフル銃を取ってテントから飛び出すと、そこには何もいなかった。しかし気配を感じた方角の水平線に目をやると、200メートル先にクリーム色のホッキョクグマがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。クマの呼吸音など聞こえるはずがないほど距離が離れていたのにあの時は確かに左耳と首筋に毛が逆立つような強烈な気配を感じた。僕の五感は平時の何倍も研ぎ澄まされていたのでしょう。クマは50メートルまで近づいたところでライフル銃を発砲して追い払いました。(聞き手 木村良一)

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【プロフィル】荻田泰永

 1977(昭和52)年9月1日、神奈川県愛川町に3人兄弟の末っ子として生まれる。県立愛川高校卒、神奈川工科大中退。身長176センチ、体重83キロ。5歳年上の妻、1歳5カ月の長男と北海道鷹栖町で暮らす。2度の北極点への挑戦を含め、14年間に13回も北極を旅している。著書に『北極男』(講談社)がある。