国語逍遥

(43)清湖口敏 入試と「難易度」 意味をもたない漢字とは

 それにつけても、この「帯説」なる語、手元の国語辞典に当たってみても、わが国最大の日本国語大辞典(小学館)と前述の新明解国語辞典に載るくらいで、広辞苑や大辞林、大辞泉といった代表的な中型辞典の項目には見当たらない。

 嚆矢(こうし)はどうやら昭和初期に刊行された国語辞典『大言海』らしく、本文に「帯説」の見出しを掲げたほか、「本書編纂(へんさん)に當(あた)りて」と題する一文でも著者の大槻文彦が帯説について詳説している。驚いたことに「風雨」も挙げられており、古代中国の経典「易経」に出てくる「風雨」の「風」も、意味を持たない帯説だという。現代のわれわれが使う「風雨」とは明らかに異なる語義である。

 これとよく似た例として思いつくのが「多少」だ。「多少」の意味は「多いことと少ないこと」「少し」「いくらか」などさまざまあるが、「多い」の意に用いることは現代では皆無といってもよい。

 しかし唐の詩人、孟浩然(もうこうねん)には次のような五言絶句がある。

 「春眠暁を覚えず/処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く/夜来風雨の声/花落つること知る多少」。結句(第四句)は「花はどれくらい散ったことか(たくさん散ったことだろう)」と訳される。ここでいう「多少」は「多い」ことにほかならない。

 日本でも古くは「譬(たと)へば人の家に多少の男子を生ぜるは此(こ)れを以(もっ)て家の栄えとす」(『今昔物語』)と、近代でも「必ず心に之(これ)を快く思はずして、多少に立腹するのみか」(福沢諭吉『福翁百話』~九)と「多い」の意に用いた例がみられる。

 現代人には何とも紛らわしい「多少」だが、こんなのが入試に出題された日には、それこそ「難易度の高い問題」として、解答を後回しにするのも賢明な方法かもしれない。

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