関西歴史事件簿

三条河原の公開処刑(中) 突き刺される幼子、面前で首はねられる絶世の美女…秀吉〝悪魔〟の如き残虐処刑の現場は悲鳴に包まれた

 文禄4(1595)年8月、豊臣秀吉のおいで関白の秀次が謀反の罪で切腹したのに続き、京都・三条河原で公開処刑されることになった秀次の一族39人。刑場をとり囲む多くの人たちから悲鳴が聞こえる中、子供5人が次々に突き刺されて果てていった。そして秀次の側室や秀次に仕えた上級女官らが処刑される番となった。

亡き子を抱いて

 最初にひき出されたのが側室の一(いち)の台(だい)。一の台と秀吉とは因縁が深く、征夷大将軍になりたい秀吉が足利義昭と親子関係を結ぼうと画策するも、義昭の拒否にあって諦めかけていたときに関白就任を勧めたのが一の台の父、右大臣の今出川春季(はるすえ)だった。

 当初は秀吉の側室になるはずだったが、一の台が拒んだために秀次が処刑されたのではと噂されるほどの絶世の美女だったという。

 引導役となった大雲院の僧、貞安(ていあん)上人は「南無阿弥陀仏」を10回唱えると極楽に往生できるという十念の法を一の台に授けると、一の台は辞世の句を読み、首をはねられていった。享年34歳。

 秀次の嫡男、仙千代丸の母の於和子(おわこ)は4番目に呼ばれた。上質の絹織物の上に経帷子(きょうかたびら)を羽織り、白綾の袴(はかま)姿で、水晶の数珠を手に持っていた。

 天正6(1578)年生まれの於和子はまだ17歳という若さ。しかしながら39人中で仙千代丸が最初に処刑されると、すぐに遺体を抱きかかえ、「母もまもなく…」とじっと耐えながら数人を見送る。

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