関西歴史事件簿

三条河原の公開処刑(中) 突き刺される幼子、面前で首はねられる絶世の美女…秀吉〝悪魔〟の如き残虐処刑の現場は悲鳴に包まれた

 そして自分の番。わが子を抱いたまま貞安上人の十念を受けると、わが子を離すことなく、切られていった。辞世の句は、

 後の世をかけしえにしをたのみにて あとしたひゆく死出の山道

 仏をひとすらに信じてすがっていく於和子の心が伝わってくる。

会うこともなく

 中には秀次の顔を見ることもなく、この場を迎えた女人もいた。11番目に処刑された出羽(今の山形)の大名・最上(もがみ)義光の三女、於伊万(おいま)(満)。駒姫とも呼ばれている。天正9(1581)年生まれ。

 天正19年、秀次が東北に遠征中に姫を見そめ、側室として差し出すよう義光に迫ったものの、姫はまだ10歳。義光は「成長を待ってほしい」と説得してその場を収めた。

 それから4年。東北一の美女と噂されるほどに成長した姫は約束通り秀次の側室として7月に上洛し、長旅の疲れを癒している最中に出くわしたのが、秀次の切腹事件だった。

 父、義光の必死の助命嘆願を処刑の直前に聞いた秀吉の側室、淀君らの声もあり、これを無視できない秀吉は姫を鎌倉で尼にでもしようと、刑場に早馬を仕立てたが、あと一歩間に合わなかったという。

 この理不尽な処刑に義光はしばし食事ものどを通らず、嘆き悲しむ日々を送った姫の母、大崎は姫の後を追うように亡くなっている。

 つみをきるみだのつるぎにかかる身の なにかいつつのさわりあるべき

 阿弥陀仏にすっかり心を委ねていたのだろう。大名の娘らしく、処刑場で終始落ち着き払っていたという姫の辞世の句は姫のお気に入りだった衣装で表装され、今も生き続けている。

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