河内幻視行

凄惨、内臓引き出し顔の皮剥ぐ…「河内十人斬り」なぜ起きたのか

 どんな事件だったのか、というと大略は分かるが、真相はいまひとつナゾである。一級史料は当時の新聞と、事件のわずか2週間後に出版された剣花道人という人が書いた『残害事件 河内十人斬』しかない。

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 事件が起きたのは5月25日深夜。熊太郎とその舎弟、谷弥五郎が、この日を決行日に選んだのには理由がある。正成が湊川の戦いで壮絶な死を遂げたのが、建武3(1336)年の「5月25日」だったからである。熊太郎は郷土がうんだ正成を誇りにしていた。

 その夜は風雨がきつかった。剣花道人著では、「五月雨の夜に入りては風さへいとゞ加はりつ山の樹立の鳴(なり)響(ひびく)さま渓(たに)水(みず)の岩に激し岸を噛む音いと物凄くちらほら見ゆる燈(あか)火(り)さへ今宵は雨戸閉(た)て切りて四(あ)遍(たり)は恰(あたか)も人(い)家(へ)なきが如く寂しさまさる初夜過ぎ」といった名調子の文章がつづく。

 村田銃や日本刀、仕込み杖で武装した熊太郎が狙ったのは、村の顔役宅である。その弟に内縁の妻が浮気されたうえ、金銭上のトラブルもあった。

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