河内幻視行

凄惨、内臓引き出し顔の皮剥ぐ…「河内十人斬り」なぜ起きたのか

 まわりの竹ヤブの葉ずれの音が、きつくなった。見わたすと、うねるような丘のかなたに、金剛山が夏の陽のなかで、くっきりと稜線を描いていた。また、墓地にきた。

 段差のきつい坂道をぐるぐると歩きまわり、ようやく見つけた墓石は朽ちていた。フチがところによっては、ボロボロに削られている。高さは1・6メートルほどもあり、なかなかリッパである。

 手前には、供えられたばかりの花がそよっと揺れていた。酒瓶がころがっていた。かすれてはいたが、碑名は読みとれた。野太い文字で、

 「城戸熊太郎墓

 と刻まれている。わきの碑文は読みとれなかったが、この墓は明治26(1893)年5月はじめ、熊太郎自身がつくった。

 このとき、熊太郎は36歳、まだ墓を造るのにははやすぎる。職業は強いていえば農業だが、博徒でもあった。

 なぜ生前に造ったのか。死ぬつもりだったからである。なぜ死ぬつもりだったのか。ウラミに思っていた一家を皆殺しにしたうえ、自殺を決意していたのである。

 熊太郎は毎年夏、河内一帯の公園や広場、境内などで繰りひろげられる河内音頭の定番「河内十人斬り」の主人公である。河内音頭には、事件や出来事などをテーマにした「新聞(しんもん)詠み」と呼ばれる出し物がある。

 「河内十人斬り」は、そのメーンイベントといってもいいであろう。京山幸枝若が有名だが、最近では河内家菊水丸も詠んでいる。作家、町田康の谷崎潤一郎賞受賞作『告白』も、事件がテーマだ。

 河内国石川郡赤阪村字水分(すいぶん)で起きたので、「水分騒動」とも呼ばれる。水分はこの墓地一帯をふくめ、楠木正成が再建した建水分(たけみくまり)神社の周辺をさす。

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