河内幻視行

敗者を厚く葬った「正成」の精神の高々しさ…「利ノ為」走らなかった無償の精神、胸を打つ

 小高い丘からは、はるかに金剛山もふくめた葛城山系の山々が、なだらかにうねっていた。見あげると、太陽のまわりのまばゆい輝きは、紺碧(こんぺき)に染まった空にかこまれ、目線を落としていくにつれ、白っぽくなって青い稜線を浮かびあがらせていた。

 村役場にもちかい森屋は、千早赤阪村の中心地である。森屋西と書かれたバス停から裏手にあたる坂道を登っていくと、新興の住宅が建っていた。そのまえの細い道を行ったところに、森屋墓地があった。

 もっとも目立つ場所の盛り土の上に、白い粉をふいたような、古ぼけた五輪塔がたっていた。大きい。

 合掌して、へりまで上がってみたら、筆者の背よりも高かった。手前の説明板をみると、182センチメートルとあった。鎌倉時代後期、楠木正成が建立した、とある。

 元弘元(1331)年から3年間、下赤坂城や上赤坂城、千早城をはじめ、南河内一帯の原野で繰りひろげられた楠木方の戦死者を葬っているのだろう、と思った。ちがった。

 塔のまえには「寄手(よせて)塚」と刻まれた石碑があった。寄手、つまり攻撃側である幕府側の戦死者が眠っているのである。

 正成側の戦死者の五輪塔は、どこにあるのか。真新しい墓石もある広い墓地内をぐるりと歩き、あまり目立たない一画で、ようやく見つけた。

 「身方(みかた)塚」とあった。ちいさい。高さ137センチメートルしかない。

 「182-137=45」である。この45センチメートルの差に、喫驚せざるをえなかった。

 正確な数字はわからないが、たしかに幕府側の戦死者のほうが圧倒的に多かった。だからといって、勝者ではなく、敗者のほうを手厚く葬るという「伝統」は、いまはない。

 敗者であっても、武将クラスならば、それなりの墓所は造られた。だが南河内とはあまり縁のない関東方面からやってきたであろう雑兵などは、屍(かばね)のまま放置されたはずである。

 だが正成は、そうしなかった。この男の精神のたかだかしさを見る思いがした。と同時に、そのたかだかしさが悲劇につながった。

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