【古代天皇誌】仁賢天皇 後継の兄は石上広高宮で即位 (2/3ページ) - 産経ニュース

メインコンテンツ

古代天皇誌

仁賢天皇 後継の兄は石上広高宮で即位

 ところが、『日本書紀』は、「或る本に云はく」として仁賢天皇の宮は2カ所あったとして「川村」と「縮見の高野」をあげています。そして、この2カ所の宮は、宮殿の柱が今に至るまで朽ちないで残っているとあります。石上広高宮と、後者の2カ所の宮との関係は、即位した宮と即位前の宮ではないかと思われます。

 先代の顕宗天皇についても、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)に即位したとして、「或る本に云はく」として、小郊(おの)と池野に宮があると記しています。さらに続けて「又或る本に云はく」として、甕栗(みかくり)に宮を造るとあります。この場合も近飛鳥八釣宮で即位しますが、小郊と池野は即位前の宮であったのではないでしょうか。

 ただ、甕栗の宮は、顕宗天皇の前代、清寧天皇の磐余の甕栗宮をさしているとみてよいでしょう。としても、近飛鳥と八釣宮との関係については、よく分かりません。

 一方、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』(奈良時代に作られた国別の地誌書)の美嚢郡(みなぎぐん)(兵庫県三木市周辺)の条に、二王がこの土地に、高野の宮、少野(おの)の宮、川村の宮、池野の宮を営んだと記しています。これらの宮の正確な比定地は不明ですが、三木市志染(しじみ)周辺だと思われます。

 上に引用しました、顕宗紀と仁賢紀に「或る本に云はく」の「或る本」は、『播磨国風土記』のことではないかとう説があります。『播磨国風土記』の成立は、霊亀元(715)年前後とされていますので、養老5(720)年に撰上された『日本書紀』は、『播磨国風土記』を参照したことは十分に考えられます。